処士策論

「処士」(しょし)とは、仕官していない人、民間の人、在野の人のこと

坂口尚「石の花」「あっかんべェ一休」 後編

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前回(前編)の続きになります。

前回は坂口尚先生の『石の花』について書きましたが、今回は坂口先生の
『あっかんべェ一休』について書きます。

以下、前回と同様に関連リンクを貼っておきます。
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『石の花』wikiリンク
『あっかんべェ一休』wikiリンク
作者:坂口尚(wikiリンク)(公式サイト※没後20年に設立されたもの)

以下、amazonへのリンク
171201_g5d3o6s8_0001.jpg石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

171201_g5d3o6s8_0002.jpgあっかんべェ一休(上) (講談社漫画文庫)
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『私は歴史オタクですが専門は幕末・明治です』
などという事は、これまで繰り返し書いてきました。

それでも「歴史オタク」には違いないのだから、「一休宗純」という歴史上の人物を扱っている本作に対しても、私(ブログ主)は大いに興味を持っているに違いない、と皆さん思われるかも知れません。

まあ、それは確かにそうなのですが・・・。
それにしても「一休」は、あまりにも難しい題材だと思います。

これは私だけに限らないと思いますが、室町時代、特にこの一休の生きた15世紀というのは、少なくとも応仁の乱が勃発する1467年頃までは歴史的な大事件もあまりなく「大河ドラマには一番なりにくい時代」であり、我々にとって「一番馴染みの薄い時代」と言っても過言ではないでしょう。

ちなみに一休の生没年は1394~1481年なので、その晩年には応仁の乱に遭遇しており、一応この作品でも応仁の乱については多少触れられています。
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また、応仁の乱と一休と言えば、一応NHK大河ドラマ『花の乱』で94年に(ちょうどこの『あっかんべェ一休』がアフタヌーンで連載されていた頃)一度放送はされています。
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しかしこの作品は応仁の乱(というか日野富子)がメインであって、一休が主に活動していた15世紀前半は物語の対象にほとんどなっていません
(※ちなみに私は最初の数話しか見ていないのでその辺、断言はできませんけど。それにしても『花の乱』は「視聴率的な部分」も含めて、NHK的には結構「黒歴史」みたいな扱いになってるよなあ。あと、ここ1年程NHKが応仁の乱と呉座勇一氏をやたらプッシュしている先週のヒストリアもそうだった)のは「数年後に大河でやりたい」という思惑でもあるのだろうか?まあ550年の節目と言われれば、確かにそうなのだが…)




前回『石の花』の時には、その「歴史物語の性質」について、私なりの見解を述べました。
端的に言えば『石の花』は「歴史物語」として捉えるよりも、「歴史ヒューマンドラマ」として読むべき作品である、と。

その一方で、この『あっかんべェ一休』という作品は「歴史物語」として、どのように描かれているのでしょうか?

実際の所、この『あっかんべェ一休』では、少なくとも『石の花』との比較で言えば、歴史の記述や当時の風俗(時代考証)の描写にかなりの力を割いて、物語を描いています。

特に土一揆や庶民の悲惨な生活ぶりなどは「これでもか!」というぐらい(上記の応仁の乱の描写からも分かるように)たたみ掛けるような勢いで描いています。また歴代の足利将軍の行状も(ほぼ全員悲惨な形で最期を迎える様子を)かなりの紙面を割いて描いています。

しかしそうは言っても、当然の事ながらこの作品は「一休という人物の一代記」というスタイルを取っていますので、やはり作者が描きたいのは「一休という人間そのもの」であり、歴史の描写は、『石の花』と比べれば非常に力を入れて描いているにもかかわらず、それほど重要視されているようには感じられません。
(※先述したように、そもそも一般的に知られている歴史的大事件があまり多くない15世紀の室町時代を描いている、という理由も大いにある)

そういう意味では、やはりこの作品も『石の花』と同様に、「歴史物語」として捉えるよりも、「歴史ヒューマンドラマ」として読むべき作品である、とは言えるでしょう。と言うよりも、この作品は「一休の人生哲学を語るドラマ作品」と言えるのかも知れません。

一つだけ注意が必要なのは前回も書きましたように、「人間」を描くと言っても『石の花』は「創作上のオリジナルキャラクター」の話であるけれど、この『あっかんべェ一休』は「実在した歴史上の人物=一休宗純」の話であるので、その捉え方は一筋縄ではいきません。

この『あっかんべェ一休』という作品は、あくまで坂口尚先生の解釈による「一休」であり、他の作家が別の解釈で「一休」を描けば、また違った形の「一休の人間像」が作られる、そういった可能性も大いにあるのです。「創作上のオリジナルキャラクター」=『石の花』の場合とは違って。


とりあえず、一休や室町時代の事を考えるにあたって、ここで司馬遼太郎『街道をゆく』の「大徳寺散歩」から、一休にまつわる司馬さんのエッセイを引用してみたいと思います。

(以下、NHK『新・街道をゆく』「大徳寺散歩」より抜粋して引用)
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『一休はその真骨頂よりも、ユーモラスな行状によって人に親しまれている。今日なおアニメになったりして、大袈裟でなく、世界中の子供から親しまれているのである。ところが、その言動や詩集「狂雲集」などから「一休とは何者か?」という事を考えていくと、一筋や二筋の縄ではいきそうにない』
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『一休が生きた室町時代そのものが異常で、私どもの想像力ですぐさま手触り出来るような時代ではない。「室町」と言えば、現在の日本文化の源流がことごとくこの時代から起こっているのである。その点では華麗この上もなく、思想においては、例えば禅がある。更に芸術においては、能、狂言、また茶や新様式の絵画などが群がり起こった。「世は幻である」と思いつつも、人々は生きる楽しさを知ったのである。一休の生涯も、そういう世間の華麗さが背景になっている』
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(中略)
『「諸悪莫作 衆善奉行」言っている事はそれだけである。「悪い事をするな。良い事をせよ」というだけの意味である。一休という人は墨跡の良い人だが、それにしてもこの「諸悪莫作」は抜きん出ている。隅々まで力が溢れているだけでなく、えもいえず優美なのである。更に言えば、信じ難い程に清らかな魂魄が高々と天にかかっている。一休は理解するよりも、むしろ感ずべき対象であるらしい。高度に感ずれば、驚くばかりに澄明(ちょうめい)である』
(以下略)

坂口先生がどのような経緯で一休に興味を持ったのか?私はよく知りません。何と言っても、この作品を描き上げた直後に急逝されてしまったのだから、単行本には「あとがき」も書かれていません。(※少なくとも私の手元にある文庫本では。元の単行本には何か書いてあったのだろうか?)

前回取り上げた『石の花』は、新潮社から出されている「新版」を参考にしていたのですが、その第4巻の巻末あたりに作者近影の写真が載っていて、そこには「次回作『狂雲子・一休』(仮題)の資料を整理中の著者」と書かれており、この第4巻が出版されたのは1988年の事ですから、『月刊アフタヌーン』で1993年から連載開始になる5年近く前から、既に坂口先生は一休に強く関心を抱いていた事が分かります。


とにかく、描く時代の選択として、この「室町時代」を選択し、描く主人公として「一休」を選択するというのは、相当「危険な賭け」だったろうと思います。まあ、それを言えば「第二次大戦下のユーゴスラビア」を選択した『石の花』も、元より相当「危険な賭け」だった訳で、そういう点ではこの2作品はある意味共通している、と言えるでしょう。

一言「天邪鬼」と言ってしまえばそれまでに過ぎないのかも知れませんが、『石の花』に込められた作品メッセージにも見られるように、
「現実または世間の常識に抵抗する自由な人間」
これが、坂口先生の理想的な人間像なのだろう、と私は思います。

だからこそ、坂口先生は一休を主人公に選んだのでしょう。

(※以下、一休にまつわる有名なエピソードを一部紹介)
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この作品は基本的に「一休の生涯をそのままマンガ化した作品」と言って良いと思います。一応押さえるべき所は概ね全て押さえて描かれているようです。

まあ私自身が、それほど一休に詳しくもなければ、室町時代も門外漢で、仏教や禅にも疎く、しかも東京在住で京都の大徳寺に行った事もありませんからあまり保証は出来ませんけどw

そして作画的な面で言えば、『石の花』の時にも少し触れましたように、写実的(劇画的)一辺倒ではなくて幻想的な心理描写または印象表現は坂口先生のオリジナリティーが一番発揮される場面ですから、この『あっかんべェ一休』でもそういった幻想的なカットが多数描かれています。
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あと、ここまでは全く触れていませんでしたが、能の「世阿弥」も結構登場機会が多く(ただし一休との接点はほとんど無かったと思いますが)準主役級の扱いを受けています。そういった方面に興味のある方にも、この作品はオススメかも知れません。
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それにしても返す返すも惜しいのは、坂口先生の急逝です。

もっと生きておられれば、更に多くの興味深いマンガ作品を我々に見せてくれたであろうに。



最後に、前回同様、ググッて見つけた『あっかんべェ一休』の書評を載せているブログなどを参考用リンクとして貼っておきます。
http://soko-tama.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-f665.html
http://ashinagakujira.blog.fc2.com/blog-entry-127.html
http://asabu001.exblog.jp/27668556/

以上で、『石の花』と『あっかんべェ一休』の論評は終了となります。

(※あ~、それにしても、これでようやく積年の胸のつかえが取れてスッキリしたw)

「NHK解体」に関するまとめ(十例)

(1) 日本の公共放送であるにもかかわらず、「自立国家・日本」が主張すべき意見を封殺し、しかも運営資金のほとんどを日本人が負担しているのに、中国・朝鮮、又は旧GHQ(特に米国の立場を優先するような番組しか制作しない。 リンク1リンク2

(2) 受信料制度に様々な不備があり、甚だ公平性を欠いている。また「国営なのか?非国営なのか?」という点も不明瞭である。「国営放送局の新規創設」「民営化」「スクランブル化及びペイパービュー」などが検討されて然るべきである。 リンク1リンク2

(3) 局の政治的及び思想的スタンスが左側の言論に偏っている。「いわゆる保守系」の言論人はほとんどNHKの番組から排除されている。 リンク1リンク2

(4) 昔はともかく、現在では朝日新聞よりもNHKのほうが害が大きい。朝日は儲からなくなれば方針転換を余儀なくされ、また新聞業界自体が斜陽産業である。一方NHKには潤沢な資金(税金)があり、更には「映像や音声で直接感覚に訴える」という高いプロパガンダ能力もある。 リンク1リンク2

(5) 「弱者・被害者」報道は公共放送として、もちろんあって然るべきだが<言葉狩り><論点ずらし><自己保身><イデオロギー闘争>に利用する為にNHKの場合、それが至上命令となっておりやり過ぎである。 リンク1リンク2

(6) NHKの原発報道は「反原発」一色で、「原発再稼働」側の意見は皆無に等しい。現在多くの国民が患っている「原発アレルギー」は、NHKが3.11以降に垂れ流してきた“音声”と“映像”によって作り上げられた、と言っても過言ではない。 リンク1リンク2リンク3拙ブログの「反原発」関連カテゴリへのリンク

(7) 外部の識者による「討論番組」が異常に少ない。「国民にオープンな討論番組を見せる」という姿勢が甚だ欠如しており公共放送として失格であり、また民主主義(選挙制度)の観点から見ても失格である。 リンク1リンク2

(8) 「表現の自由」を盾に一切の干渉を排除し、リベラル知識人特有の「上から目線(=「国民は愚民」という意識)」も強烈で、公共放送の在り方や番組の内容について「国民にアンケートを採る」という事を一切しようともせず、非常に独善的であるリンク1リンク2

(9) 「JAPANデビュー反日台湾番組」や「佐村河内のヤラセ番組」等、非常に問題のある番組を数多く放送してきたが、責任を全く感じていない。 リンク1リンク2

(10) 一般のマスメディアで取り上げられる事はほとんどないが、NHK職員の不祥事は異常に多い。また公共の受信料で成り立つ放送局としては職員の待遇がお手盛り過ぎるという問題もある。 リンク1リンク2


その他にも、NHKが制作してきた数多くの「媚中番組」「韓国・朝鮮人擁護番組(ヘイト関連含む)」「民進党擁護番組」等の問題、また近年急速に内容が劣化している「NHK大河ドラマ」の問題などもありますが、それらは上記から割愛しました。

【結論】NHKを解体して、国民にとって必要最低限の事を放送する国営放送局を立ち上げ、残りは民営化すべし。(終)

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テーマ:報道・マスコミ - ジャンル:政治・経済

坂口尚「石の花」「あっかんべェ一休」 前編

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唐突ですが、久しぶりに「マンガ関連」の事を書きます。
実に約3年ぶりという事になりますか。

3年前までこのブログでは年2回ぐらいのペースで個人的な趣味の話である「マンガ関連」の話を書いていました。

(※過去にこのカテゴリで取り上げたマンガ作品は以下の通りです)
安彦 良和『王道の狗』(2012/01/22)
みなもと 太郎『風雲児たち』(2012/04/29)
山岸 凉子『舞姫 テレプシコーラ』(2012/09/02)
関川 夏央・谷口 ジロー『「坊ちゃん」の時代』(2011/12/26)
星野 之宣『ヤマタイカ』、『宗像教授シリーズ』(2012/11/04)
木村 直巳『天涯の武士』(2013/01/14)
森田 信吾『明楽と孫蔵』、『栄光なき天才たち』(2013/04/21)
村上もとか『六三四の剣』、『龍-RON-』、『JIN-仁-』(2014/04/05)
原作:真刈信二 作画:赤名修『勇午』(2014/10/14)
原作:工藤かずや 作画:浦沢直樹『パイナップルARMY』(2014/10/18)

しかしその後はなんとなく書きそびれてしまって、そのまま今日(こんにち)に至ってしまいました。
(※なにしろ2年前の日韓慰安婦合意の時に、一回「ブログ閉鎖」を宣言したぐらいだからねえ)

マンガオタクである私の属性において、その中でも特に「歴史マンガ」に関する私のコダワリは並大抵のモノではありません。その事は、これまで書いてきた上記の一覧表からもある程度お察し頂けると思います。

ひょっとすると「マンガ関連」の話を書くのは今回で最後になるかも知れませんので、以前から『これだけは絶対に外せない!』と思い続けてきた、この坂口尚先生の2作品について、今回は書いておきたいと思います。

『石の花』wikiリンク
『あっかんべェ一休』wikiリンク
作者:坂口尚(wikiリンク)(公式サイト※没後20年に設立されたもの)

以下、amazonへのリンク
171201_g5d3o6s8_0001.jpg石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

171201_g5d3o6s8_0002.jpgあっかんべェ一休(上) (講談社漫画文庫)
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『風雲児たち』『ヤマタイカ』の時にも書きましたように、私はその当時(80年代中頃)『コミックトム』という雑誌自体を読んだ事がありませんでしたので、この『石の花』という作品も、その当時ライブで読んでいた訳ではありません。

今から約20年前(90年代中頃)、私が『月刊アフタヌーン』を毎月読んでいた事は『勇午』の時に書きました。ちょうどその頃、同じ『月刊アフタヌーン』で連載していたのが坂口尚先生の『あっかんべェ一休』です。

『あっかんべェ一休』は作品自体も非常に印象的な作品ではあるのですが、それより何より、もっと印象的だったのは、アフタヌーン連載の最終回で主人公の一休が死んで「あっ、かん、べェ~!」と去って行く、まさにその連載号で(私の記憶では。ひょっとしてもう少し後だったかも知れないが)「作者・坂口尚の急死」がアフタヌーンの誌面で発表されて、「そのあまりのリンクぶりに」非常にビックリした、という強い印象が残っています。

この『あっかんべェ一休』という作品が非常に私の印象に残りましたので、それをきっかけにしてその後しばらくして、同じ作者の作品である『石の花』も後追いで読む事になった、という訳です。



そんな訳で、今回(前編)は先に描かれた『石の花』について書きたいと思います。

物語の内容は、ザクッと言ってしまえば「第二次大戦下における旧ユーゴスラビアの話」です。

新潮社から出ている「新版」(全5巻)の2巻冒頭にある「これまでのストーリー」の部分を引用して、以下に作品の概要を紹介します。

(以下、引用)
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 1941年、平和なユーゴスラビアを、突如、ドイツ軍が襲った。ダーナス村に住む少年クリロも、級友たちと、ポストイナ鍾乳洞の美しい“石の花”を見学した帰路、ドイツ機の奇襲を受ける。必死で逃げ出したクリロだったが、同級生は全員死亡、村は焼き払われ、親しい少女フィーはドイツ軍に捕まり、収容所へ送られる--。
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 当時のユーゴは、日・独・伊の三国同盟に加入した直後で、国内には不満が続出、首都ベオグラードではクーデターまで発生していた。それに対する報復として、ドイツ軍はユーゴ分割占領という強硬策に出たのだった。ユーゴが多民族国家である点を突いた作戦だった…。

 クリロは、山岳難民に助けられ、しばしの安堵を得るが、ユーゴ軍が呆気なく降伏したと知り、兄イヴァンを探しにザグレブ市へ行く。
 一方、収容所へ送られたフィーは、連日の強制労働に耐えながら、“ガス室送り”の恐怖に震えていた。ところが、ある日、急に町中の豪邸へ連れて行かれ、豪華な衣服や食事を与えられる。屋敷の主は、ナチスのエリート軍人マイスナー大佐。彼は、フィーの容姿に、亡き妹の面影を見出し、身近に置いておこうとする。「平等こそ頽廃をもたらす。生存とは、闘争そのものだ。凡俗はガス室送りだ!」--マイスナー大佐の異常なまでの冷徹さに、フィーは「収容所へ戻して」と叫ぶ。
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 クリロは、ザグレブで知り合った風来坊ミントの協力を得て、兄イヴァンの恋人ミルカに会った。彼女によれば、イヴァンは政治研究グループに属しており、まったくの行方不明だという。「とにかくジッとしてられないんだ」というクリロは、ミルカの紹介で、イヴァンの知人ブランコが率いる山岳ゲリラに加わる。「おれも仲間に入れて下さい。銃の撃ち方、教えて下さい!!」
 ドイツは、以前から分離意識の強かったクロアチア地方を独立国として承認し、他の地方を周辺諸国に分割占領させることで、ユーゴ国内の民族同士の対立を、さらに煽っていた。地下に潜行したユーゴ共産党は「今回の戦争は、帝国主義同士のケンカだ」と静観の構えである。
 問題は、イギリスの態度だった。イギリスは、ユーゴ亡命政府を受け入れていたが、はたして、どのような形でユーゴを支援してくるか…。
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 ある日、クリロは、町で、ドイツ軍将校の車に乗ったフィーの姿を見かけた。車は、マイスナー大佐の屋敷へ入って行く。仲間が止めるのも聞かず、クリロは、単身、マイスナー大佐の屋敷へ忍び込む…。
 邸内のベランダに佇む少女の姿--それは、まさしくフィーだった!だが、再会の喜びも束の間、クリロは、すぐに見つかり逮捕される。そして、さらに驚くべき再会が--屋敷には兄イヴァンがいたのだ!
「兄さん、どうして、こんな所に!?」
 何も語らないイヴァンに代わり、マイスナー大佐が答えた。
「イヴァンと私は七歳までドイツで共に学び遊んだ仲だ。彼の体にはドイツの血が流れている」
 イヴァンは、クリロとは実の兄弟ではなかった。ドイツの血を引いた従兄で、両親を早くに亡くし、クリロの家で、兄弟として育てられたのだった。今は独軍情報局で、スパイとして働いているという。あまりの衝撃に、クリロは言葉もない。
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 そして、クリロの処刑。イヴァンは、ドイツ人としての証(あかし)を立てるために、自ら銃を持って、クリロの前に立った。一発の銃声!裏庭の川へ落ちていくクリロ…。イヴァンは、わざと狙いを外して撃ったつもりだったが--。
 そのころ、町中を噂が駆け巡っていた。「共産党が、ユーゴ人民解放パルチザン部隊を結成だとよ」「総司令官はチトーとかいう男らしいな」…。(終)

いきなり余談から入るのも何ですが、冒頭に挙げた「マンガ関連」の過去記事一覧にもあるように、私がよくよく「お気に入りの作品」として読んでいたマンガ作品というのは、後から思えば『コミックトム』という、私が全く読んでいなかったコミック雑誌で連載されていたものばかりなのだなあ~、とつくづく気づかされます。
(※横山光輝の『三国志』や手塚治虫の『ブッダ』も子供の頃に単行本で読んでたけど「連載している雑誌本体」の事には、全く頭が回らなかった)

そりゃまあ、この『石の花』が連載されていた当時は、私はまだ中高生ぐらいの年頃ですから、その頃は普通にジャンプやサンデーぐらいしか読んでいませんでしたので、これらの『コミックトム』系の作品の事を知って後追いで読むようになったのは、大体二十代になってからの事でした。

なんでこんな話から始めているのか?と言うと、この『石の花』という作品は、その読者の対象年齢が「どういう年齢層を狙っているのか?」というのが、よく分からないのです。

いや、実は対象としている読者層はハッキリとしている。
それはこの作品のテーマとも関連しており、作者の坂口氏がこの作品に込めている「現実を現実として、それを抵抗なく受け入れてしまうような大人であって良いのか!?」という「彼の想い」からすれば、対象としている読者層は「青春時代への想いが強い人々」である事は間違いありません。
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しかしそれを承知の上で敢えて疑問を呈したいのは、この作品の主人公は「少年クリロ」であり、「少女フィー」なのです。という事は、この物語は少年少女に向けて語られている「少年マンガ」なのか?というと、そうではなくて、物語の本線は「第二次大戦下のユーゴスラビアの話」という、少年少女にはかなり難解な時代背景の設定になっています。

そして話の内容も(戦争の話なので)メチャメチャ重い。

まあ確かに。
逆に言えば、これほど重い内容の話であるからこそ、主人公は「少年・少女」でなければならなかったのかも知れません。これがもし、主人公が「青年」であったとしたら(更に様々な葛藤の描写を描かざるを得ず)それこそ、もう救いようがないぐらい惨憺たる話になっていたかも知れませんから。
(※いや、もちろん。この作品はこれでも十分「惨憺たる内容の話」ではありますけど)




次に「歴史物語」という事について。

いつも述べておりますように、私は確かに「歴史オタク」ではありますけれども、私の専門は「幕末・明治」です。

ですから旧ユーゴスラビアの歴史については、せいぜいNHKでちょうどその頃(私がこの作品を初めて読んだ90年代中頃)放送されていた「映像の世紀:第10集・民族の悲劇果てしなく」で見た程度の知識しかありませんでした。その後、ネット環境が整備されてからはネットでいろいろと勉強はしましたけれども。

それはさておき。
私は村上もとか先生の『JIN-仁-』の論評を書いた時に、手塚治虫先生の『陽だまりの樹』について以下のように書きました。
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(以下、一部抜粋して引用)
これは手塚作品をいくつか読んだ事のある人にとっては説明するまでもない話でしょうけど、手塚先生は基本的に「ヒューマニズム」第一主義なのであって、「歴史」という観念的なモノはあまり好きではないんですよね。
しかも、ハッキリ言ってしまえば、良くも悪くも「左がかった思想」にかなり近い考え方の人ですし、歴史上の人物に対する見方というのは「かなり冷めた見方」という感じがこの作品からは見て取れます。
(以下略)
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イヤハヤしかし、「マンガの神様」に対してなんちゅう無礼な事を書いとるんだ!当時の私はw

これもネットが普及してから後追いで知った知識ですが、坂口先生は手塚治虫先生の弟子だったようです。(※参考用wiki

なるほど確かに、坂口先生の作画には手塚先生の影響が多少見受けられます。もっとも、坂口先生の作画は手塚先生の絵をかなりシャープにしたように感じられますが、それでも写実的(劇画風)一辺倒という訳でもなく、随所に幻想的でアーティスティックなカットが取り入れられており、特にこの『石の花』という作品では坂口先生の豊かな感受性に裏打ちされた表現力が、いかんなく発揮されていると思います。
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ちなみに私は坂口先生の『VERSION』という作品は、ちゃんと読んではいません。パラパラと中身を少し覗いた事はありますけど。なにしろ私、SF作品は苦手なものでw
他に坂口先生の作品としては初期の『ウルフガイ』および様々な初期短編集などにも目を通した事はありますが、その頃の作画はこの『石の花』のレベルにはまだ遠く及んでいません。これは私の推測ですが、その間、手塚プロでのアニメ制作の現場で表現技術が鍛えられたのではないでしょうか。


そして坂口先生の描く、この『石の花』という歴史物語は、やはり手塚先生の「ヒューマニズム重視」の路線を踏襲した歴史物語である、といって差し支えないと思います。

ハッキリ言ってしまえば、描きたいのは「歴史」ではなくて「人間」である、という事ですね。しかしこれは結局の所、個々人の好みの問題ですから、どちらが良いとか悪いとかは言えません。

ただし、その「人間」というのは、あくまでも「創作上のオリジナルキャラクター」の事であって「実在した歴史上の人物」の事を指している訳ではない、という事は一応指摘しておきたいと思います。

おそらく作者が描きたかったのは、戦争という極限の状況下における「生身の人間」であり、「人間の本性」「人間の弱さ」そういったものを描きたかったのだと思います。

以下、最終巻の巻末に書かれている坂口先生の「あとがき」を紹介します。

(以下、抜粋して引用)
あとがき
“戦争”を題材にしたものをと、依頼されたのは1982年の夏近くの頃だった。私は戦後生まれである。直接、戦争のことは知らない。少々ためらった。しかし、私のやっている創作とは、自分で体験したことのない事件や状況をも設定し、人物を登場させて一つのドラマにしていく作業である。宇宙空間へ行ったこともないのに、宇宙船内の物語を作ったりもする。人殺しも描く、女も老人も描く。私は引き受けた。
 よく、「なぜ、ユーゴを選んだのか?」「なぜ、アメリカやイギリスでないのか?」と訊かれる。戦争映画というとアメリカ、イギリスの活躍が出てくるので食傷気味であったのも事実であるが、民衆が抵抗に立ち上がったパルチザンに興味をひかれたこと、そしてユーゴは、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字が混在する複雑な環境であることの二点が、私の積極的な創作動機となった。特に“複雑な環境”は、この世界の縮小版ともいえる。
 人は成長と共に庭先や路地裏や砂場から、やがて社会を視野に入れる。世界が広がっていく。しかし、私はどうもいぶかしく思っていた。本当に広がるのだろうか?
 子供のころ超人(スーパーマン)に憧れる気持ちは、昔、子供だった私にもよく理解できる。シンデレラ姫を夢見る気持ちもわかる気がする。だが、人は年齢を重ねるにしたがい、超人もシンデレラ姫も遠い存在となり、「オモチャ箱へオモチャを整理しなさい」と、言われ続けているうちにやがて、そういった者達もオモチャ箱の中にしまいこんでしまう気がする。あの勇気や美や愛に満ちた空間の光を浴びて身も心も躍動していたとき、叱られたり、喧嘩したり、くさったり、泣いたり、淋しかったりしても、超人かシンデレラ姫の分身のような気になったりして立ち直れたものではないだろうか。エネルギーの根源(モト)になるような何かがあった。そういうものまでも…。
「整理」をすることによって“けじめ”“仕切り”“区別”をつけるわけだ。オモチャ箱の中と外の世界を。それは学業生活、やがて社会人として集団の中で暮らしていくのには当然なのかも知れない。それでも、大人になってからあの“光”を求めてオモチャ箱の中をのぞきたくなれば、のぞくことは出来る。世の中にはそのための「もどき」がたくさんある。それは多分に現実生活を一時忘れさせるために、疲れを癒すために。そして、もし幸運にも「もどき」でないものに出会えたとしても、尋常のことでは、かつて“光”を浴びた時のようには、事実、身も心も躍動はしないと思う。なぜなら、あまりにも外の世界の塵あくたが自身に降り積っているからだ。
 それにしても、あの“エネルギーの根源”は何だったのだろう。
 あの箱の中には創造的かつ積極的な生き方の秘密が入っている気がする。私は、それを見つけたいがためにもう一度あの箱をのぞきこんで、この作品を描き始めたのだと思う。なぜなら、オモチャ箱の外の世界でもいきいきと生きたいために…。
 私には、オモチャ箱の中より外の世界の方が小さく見えてしょうがないのである。
(※以下、新装版への追加・修正の説明および編集者や諸々の協力者への謝辞は省略)
 そして、私事ですが、その精神と生き方において尊敬する『江古田の仙人』に、この世でめぐり会えたことは深い喜びです。
一九八八年 秋
坂口 尚

(※この最後に書かれている『江古田の仙人』というのは多分、その翌年に亡くなる事になる手塚治虫先生の事なんだろう、と思います)


もしもこれから初めてこの作品を読むという人がいらっしゃって、その人が第二次大戦の歴史やミリタリーに多少なりともコダワりを持っているとすれば、そういった部分には、あまり期待をなさらないほうが良いと思います。

また、原作者の付いていない歴史作品では時々見受けられるパターンではありますけど(安彦先生とか)、終盤「広げに広げすぎた風呂敷が、ちゃんと包まれないままに終わる」といった残念な部分も多少見受けられますが、そこはまあ、あまり目くじらを立てずに温かい目で見てあげてください。


最後に、ググッて見つけた『石の花』の書評を載せているブログなどを参考用リンクとして貼っておきます。
http://www.geocities.jp/msakurakoji/901Comics/34.htm
http://gakushumanga.jp/manga/%E7%9F%B3%E3%81%AE%E8%8A%B1/
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20110305/p1


以上で『石の花』についての論評は終了です。
次回(後編)の『あっかんべェ一休』に続きます。

「NHK解体」に関するまとめ(十例)

(1) 日本の公共放送であるにもかかわらず、「自立国家・日本」が主張すべき意見を封殺し、しかも運営資金のほとんどを日本人が負担しているのに、中国・朝鮮、又は旧GHQ(特に米国の立場を優先するような番組しか制作しない。 リンク1リンク2

(2) 受信料制度に様々な不備があり、甚だ公平性を欠いている。また「国営なのか?非国営なのか?」という点も不明瞭である。「国営放送局の新規創設」「民営化」「スクランブル化及びペイパービュー」などが検討されて然るべきである。 リンク1リンク2

(3) 局の政治的及び思想的スタンスが左側の言論に偏っている。「いわゆる保守系」の言論人はほとんどNHKの番組から排除されている。 リンク1リンク2

(4) 昔はともかく、現在では朝日新聞よりもNHKのほうが害が大きい。朝日は儲からなくなれば方針転換を余儀なくされ、また新聞業界自体が斜陽産業である。一方NHKには潤沢な資金(税金)があり、更には「映像や音声で直接感覚に訴える」という高いプロパガンダ能力もある。 リンク1リンク2

(5) 「弱者・被害者」報道は公共放送として、もちろんあって然るべきだが<言葉狩り><論点ずらし><自己保身><イデオロギー闘争>に利用する為にNHKの場合、それが至上命令となっておりやり過ぎである。 リンク1リンク2

(6) NHKの原発報道は「反原発」一色で、「原発再稼働」側の意見は皆無に等しい。現在多くの国民が患っている「原発アレルギー」は、NHKが3.11以降に垂れ流してきた“音声”と“映像”によって作り上げられた、と言っても過言ではない。 リンク1リンク2リンク3拙ブログの「反原発」関連カテゴリへのリンク

(7) 外部の識者による「討論番組」が異常に少ない。「国民にオープンな討論番組を見せる」という姿勢が甚だ欠如しており公共放送として失格であり、また民主主義(選挙制度)の観点から見ても失格である。 リンク1リンク2

(8) 「表現の自由」を盾に一切の干渉を排除し、リベラル知識人特有の「上から目線(=「国民は愚民」という意識)」も強烈で、公共放送の在り方や番組の内容について「国民にアンケートを採る」という事を一切しようともせず、非常に独善的であるリンク1リンク2

(9) 「JAPANデビュー反日台湾番組」や「佐村河内のヤラセ番組」等、非常に問題のある番組を数多く放送してきたが、責任を全く感じていない。 リンク1リンク2

(10) 一般のマスメディアで取り上げられる事はほとんどないが、NHK職員の不祥事は異常に多い。また公共の受信料で成り立つ放送局としては職員の待遇がお手盛り過ぎるという問題もある。 リンク1リンク2


その他にも、NHKが制作してきた数多くの「媚中番組」「韓国・朝鮮人擁護番組(ヘイト関連含む)」「民進党擁護番組」等の問題、また近年急速に内容が劣化している「NHK大河ドラマ」の問題などもありますが、それらは上記から割愛しました。

【結論】NHKを解体して、国民にとって必要最低限の事を放送する国営放送局を立ち上げ、残りは民営化すべし。(終)

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マンガで見る「外国」。原作者「真刈信二・工藤かずや」後編

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前回の記事、マンガで見る「外国」。原作者「真刈信二・工藤かずや」前編。香港 の続きになります。

前回の記事の中でも予告しておきましたように、今回取り上げる「マンガ原作者」工藤かずや、そして取り上げる作品は「パイナップルARMY」です。

パイナップルarmy 1 (ビッグコミックス)パイナップルarmy 1 (ビッグコミックス)
(1986/04)
工藤 かずや

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※パイナップルARMY Wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%ABARMY

さっそくですが、正直に言いますと、『前回の記事の続きです』というのは、実はウソです。

マンガで見る「外国」
前回の「勇午」と同様に、「パイナップルARMY」がそういったジャンルの作品であることは事実ですが、「パイナップルARMY」という作品を論評するにあたっては、その事を第一義に置くべきではありません。

いや。確かにその「外国が舞台である」という舞台設定は、非常に重要です。非常に重要である事は間違いないのですが、前回論評しました「勇午」という作品は、まさに「それこそがウリ」という作品であった訳ですけど、この「パイナップルARMY」の場合は「勇午」には無い「骨太なヒューマンドラマ」とも言うべきドラマ要素が豊富に盛り込まれており、「外国が舞台である」などという舞台設定は、ドラマを盛り上げるための一つの要素として用いられているに過ぎないのです(まあこんな事は別に、取り立てて説明する必要も無い当たり前の話で、「勇午」という作品が少し特別であるだけの事なんですけど)。

また、前回の記事の終盤に書きました、「北アイルランド問題」、更には「IRA(アイルランド解放戦線)などについても、この「パイナップルARMY」で取り上げられていますし、それ以外の世界各地のテロ組織、またはそれらのテロを取り締まる組織なども作品内で多々取り上げられていますが、今回のこの記事では、別にそれらの実情や世界各国の国情などについて書きたい訳ではありません。

そもそも、ただのしがないサラリーマンである私が、そんな頻繁に外国に出向いていける訳もないですし、そういった外国の知識は私にはありません。
私が今回やりたかった事というのは、ただ純粋に、
「原作者・工藤かずや」と、その代表作「パイナップルARMY」について論評する
という事であって、まあ香港の話や「勇午」に絡めて、『この際だから、一緒に書いてしまおう』などといういい加減な発想が頭に浮かんで、前回と今回はこのような形で「前編・後編」とシリーズ化していますが、今回の「パイナップルARMY」の記事は前回とは全く趣の異なった内容になる事をあらかじめご了承頂きたいと思います。


前回の記事で、私はこの「パイナップルARMY」という作品の事を、
その当時(1985~1988年頃)一番好きなマンガだった
と書きました。

もちろん、その頃は単行本も全巻(全8巻)持っていたのですが、私もこれまで幾度となく引っ越しを繰り返してきまして、その都度大量のマンガ本を古本屋で処分しては、また少しずつ増えていき、次の引っ越しの時にまた大量に処分する、という事を繰り返してきました。

そんな訳で今、私の手元にある「パイナップルARMY」は、後年になって揃え直した文庫本バージョンです。

その文庫本1巻の巻末に、「新宿鮫」の大沢在昌氏によるエッセイが載っていまして、この文章がまさに『我が意を得たり』といった内容のもので、その文章を借りて、
「パイナップルARMY」とは如何なる作品か?
という事をまずは紹介させて頂きます。

(まず最初にWiki 「パイナップルARMY」のあらすじより抜粋して転載)
主人公ジェド・豪士は世界各地の戦場を渡り歩いた元傭兵。傭兵を引退した彼は、民間の軍事顧問機関である「CMA」に転職。戦闘インストラクターとして、多様な事情を持つ人々からの依頼により、それぞれの戦場で生き延びる道をレクチャーする。

(以下、文庫本1巻巻末の大沢在昌氏のエッセイと、作品中の各場面を抜粋して転載)
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 負けた、とまず感想を述べておこう。本稿のために「パイナップルARMY」全八巻を改めて読んだとき、そして息もつかずに全巻を読み終えたときに、私が抱いた気持ちだ。
 ハードボイルド、冒険小説、どちらでもよい。男たちの物語が好きで、男たちの物語を紡ぎたくて、小説家をめざした私だが、この世界は、決して小説で書くことができない。
 いや、書くことはできる。しかしそれぞれのエピソード、コミックでは二十四頁で表現されている物語を、もし文字のみで描こうとするなら、優に四百字詰の原稿用紙で二百枚近くを要するにちがいない。
 もちろんそれ以下の枚数でも、ストーリーの流れを追うことはできるだろう。しかしそうすれば情感もなく、風景も、登場人物たちの背景も、はしょらざるをえない。結果、いかにも物足りない作品になってしまう。
 世界各地を次々と移る舞台、さまざまな政治情勢、多様な人種とその歴史、それらの物語の背景となる要素があってこそ、決して表舞台に立つことのない、元傭兵、戦闘インストラクター、ジェド・豪士の活躍は生きている。
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(中略)
 無名だがしかし、ひとりひとりの胸の中に戦う理由を秘めた男たちや女たちを、きっちり描き分け、迫ってくるのだ。
 はっきり書いてしまおう。
 私はこういう小説が書きたい。だが書けない。というより、これほど多くの情報と物語を詰めこみつつ、シリーズとして成功させるのは至難の技であることを知っている。
 たとえば、ジェド・豪士。一見さえない、ぼんやりとした表情の東洋人。いかにも、という二枚目ヒーローとはほど遠いキャラクターは、小説的ですらある。しかし、多くの小説がそこで物語の流れを停滞させる、主人公の過去に関する描写は、まったくおこなわれない。
 日系人と称しているが純粋な日本人であろうこと、年齢は三十代後半のどこか。絵から入る情報はそれだけだ。そして充分なのだ。
 彼がなぜ傭兵部隊に身を投じたのかは、一切、語られることはない。なのに、彼が人を殺すことに倦んでいることは、はっきりと伝わってくる。
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 彼のスピリットは、ハードボイルドのそれである。傍観者であることを望む。戦闘の方法はレクチャーするが、決して自分自身は加わらない、というルールにこだわりつづける。しかし、ふりかかる火の粉を払うのはいとわない。
 エピソードのひとつひとつは、計算され、抑制がきいている。浦沢直樹氏の画風は、ぴったりと合っている。もしこれが、シャープな描線の、劇画的な絵柄であれば、戦闘シーンはむしろ作りものめいた描写となったろう。
 スタイルは決して新しいものではない。エンターテインメントの基本、無関係を望むヒーローが、しかし無関係ではいられず、トラブルとかかわっていく。戦いに巻きこまれた、男たち女たちの悲哀。立ち去っていく豪士の、ずんぐりとした背中にも、それが浮かびあがってくる。
 しかし決してあたらしくはないそのスタイルを、世界各地を舞台にして成功させた作品は、そうはないのである。
(中略)
 マンガは怖ろしい勢いで進化し、そして小説では果たしえぬ手法を武器に、娯楽文化の中枢をになっている。
 もちろん、あらゆるマンガが、小説を越える手法をもっているわけではない。あたらその手法を無駄にしている作品も数多くある。
 かくいう私も、マンガの原作者として、いくつかの作品に挑戦してきた。小説とマンガのちがいについては、さんざん勉強させられたつもりだ。
 その勉強の結果が、この「パイナップルARMY」は、決して小説では書きえない傑作である、という結論をもたらしたのだ。
 では、マンガの原作者として「パイナップルARMY」を越える作品を生み出すことができるのか、と自分に問おう。
 困難である。だがいつか、こうした傑作を生み出したいとは願っている。マンガの原作であれ、小説であれ、書き手としての「闘志」が、こうした傑作にぶちあたったとき、私の中で燃えあがる。私は幸福な読者である。(終)


さすがにプロの物書きだけあって、大沢氏は「パイナップルARMY」という作品について的確に論評しています。

私が付け加える事など、もうほとんど残っていないのですが、まあ、あとは私なりの個人的な論評なども少し書き加えておく事とします。

大沢氏は小説家なので、自分の本職である「小説」という観点から「パイナップルARMY」を論評していますが、この作品を目にした事のある一般的な読者の感想からすると、多分最初に頭に浮かんだ事は『なんだか映画っぽい作品だなあ』という感想だと思います。

それは別に『ジェフリーはどう見たってエディ・マーフィーだろ!?』といったような話ではなくて(他にも作中、洋画の俳優を模したキャラクターが度々登場しますけどw)、作品作りのコンセプトとして、「映画的な演出および場面構成」が取り入れられていると見るのが、ごく一般的な感想なのだろうと思います。

マンガオタクである私からすれば、マンガという表現手法を「まるで一つの映画作品を見ているような気分にひたれるぐらい」、そこまで作品としての完成度を高めたという事に対して、純粋に尊敬の念を抱きます。



前回の記事では、「今行なわれている香港の民主化デモ」と関連して、「時期的な要素」という言葉を使用しました。
その言葉の使い方とは意味合いを全く異にしますが、「パイナップルARMY」という作品を語るにあたっても、「時期的な要素」という側面から論評しておきたいと思います。

この「パイナップルARMY」が連載されていたのはWikiにも書いてありますように、1985~1988年の約3年間です。

時代的には冷戦末期の頃で、作中でも東西の冷戦構造が大前提として状況設定がなされています(まあ最終回、と言うか最後のシリーズ作品では、その辺りにも面白い演出がなされていますが、ネタバレになりますので、そこは伏せておく事にします)。

東西冷戦の事はともかく、私がこのカテゴリで何度か指摘している事として、
1990年頃を境にして、日本の言論空間は左側へ急旋回した
という私個人の認識があります。
(※過去記事のリンク)
久々の幕末関連ネタ及び森田信吾(マンガ家)について 後編(2013/04/21)
村上もとか・第2回『龍-RON-』と満州国関連の話(2014/04/03)

その事と関係があるのかどうか?ハッキリとは分かりませんが、この作品以降、「傭兵のプロ」が主人公になるような話はあまり見かけなくなりました。少なくともメジャーなマンガ作品としてはあまりありません(前回の記事の終わり際にも少し触れましたけど、「ゴルゴ13」は例外と言えるのかも知れません)。

しかも「戦争の悲惨さ」ばかりを強調するような「傭兵マンガ」であるならまだしも(「日本の言論空間」には受け容れられやすいのだろうけど)、この「パイナップルARMY」という作品の場合、よりにもよって基本的なコンセプトが「ヒューマンドラマ」であるのだから、「傭兵のプロ」=「戦争のプロ」が主人公では、連載を続けていくのはなかなか難しかっただろう、と推察できます。

そういう意味では、「1980年代」というのは「幸せな時代だった」と言えるでしょう。
おそらく、今の若い人がこの「パイナップルARMY」を読んでも、私がその当時味わっていたような「面白さ」は、ほとんど味わう事はできないでしょう。


話は全然変わりますが、私はこの作品を語るにあたって主に「原作者」に焦点をあてて解説をしていますけれど、一般的には原作者である工藤かずやよりも、作画者である「浦沢直樹」のほうが有名だと思います。特に若い人であれば、その傾向が強いと思います。

しかし私はダメなんですよ。
私にとっての「浦沢直樹」のベスト作品は、もちろん「パイナップルARMY」で、多分そんな人間は世界で私一人なのだと思いますけど、他のどの浦沢作品を読んでも「パイナップルARMY」より面白いとは感じられないんですよ(純粋な「画力」、という面の評価はともかくとして)。

「その時代に生で感じていた(見ていた)から」とか、「今の時代(もう、ありとあらゆる表現手法がやり尽くされてしまっていて)、昔の名作映画を超えるような映画を作るのは難しい」とか、そういった格言に象徴されるような「時期的な要素」(時代的な要素)も関係していると言えるのかも知れませんが、『「パイナップルARMY」が名作である』という私の思い入れは、おそらくそんな特殊なものではなくて、「名作と言われるような作品には、普遍的に備わっている物語の要素」が、ごく自然と作品の中からにじみでているという、ただそれだけの事に過ぎないと私は思っているんですよ。

とりあえず私の好きな話を、一つ紹介しておきましょう(もちろん、ネタバレは極力避けるようにしています)。

(以下、「パイナップルARMY」の「泣く男」という話から、一部を抜粋転載します)
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ストーリーの極一部しか紹介していませんので、なかなか話の内容は想像できないかも知れませんが、独特の雰囲気だけは伝わったと思います。


さて、それでは工藤かずやという原作者について、「パイナップルARMY」以外の作品も少し補足しておきましょう。

工藤かずやWiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E3%81%8B%E3%81%9A%E3%82%84

私は「パイナップルARMY」を読んでいるのとほぼ同じ時期に、ビッグコミック・スペリオールでこの「信長」を読んでいまして、私はそれで完全に「原作者・工藤かずや」にハマリました。

信長 1 (MFコミックス)信長 1 (MFコミックス)
(2003/07/23)
工藤 かずや

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ご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、この「信長」という作品は史料画像の著作権が問題になって、その当時発行されていた単行本(小学館版)は「最終巻のみ、発行されず」という異常な状態に追いやられていました。ですから小学館版の単行本は今ではほとんど世間に出回ってはいません。現在はメディアファクトリー社から全8巻が改めて出版されています。

概ね織田信長の史実をそのまま踏襲した内容と言えると思いますが(もちろん劇画的(マンガ的)な演出はそこかしこに見られますが)、信長のカリスマ的なキャラクターと工藤氏の原作が非常にマッチして、マンガ作品としてはかなり秀逸な出来に仕上がっていると思います。もちろん、以前「男組」を少しだけ取り上げた時に指摘しましたが、「絵師・池上遼一先生」の作画あっての作品だとも思っています。


「工藤かずやと池上遼一」コンビと言えば「信長」だけに限らず、前回の記事でも少しだけ触れました、「舞」という作品もあります。
舞 1 (MFコミックス)舞 1 (MFコミックス)
(2006/10)
工藤 かずや

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当時(1985、86年頃)私は少年サンデーを読んでいましたので、この作品も私は読んでました。当時は「メチャメチャ好きな作品だった」という訳でもありませんでしたが、「信長」と同じコンビという事で後に単行本を全て揃えたものの、今現在は手元に残っていませんので、詳しく解説する事は出来ません。まあ少年誌の作品ですからね。内容はそれなりに(当時としては)面白かった記憶があります。


あと、これは『作品名だけは聞いた事がある』という人がいるかも知れません。
極道ステーキ 1巻極道ステーキ 1巻
(2013/09/20)
土山しげる、工藤かずや 他

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タイトル名だけは強烈な印象に残る」という、ややイロモノ的な作品ですが、「ヤクザの世界」を描いた青年誌のマンガ作品です。
私も10数年前に、漫画喫茶で全巻イッキ読みしたはずですが、内容はあまり憶えていませんw
とりあえず終盤はグダグダな形になって終了した記憶だけは残っていますw


あと最後にもう一つ。「新選組」です。
新選組 2 (MFコミックス)新選組 2 (MFコミックス)
(2003/12/22)
工藤 かずや

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今でこそ、私はそれなりの「幕末マニア」になってしまってますが、当時(1990年頃)はせいぜい司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んでたくらいのもので、あまり幕末の知識はありませんでした。それで当時は、この「新選組」というマンガはかなり面白い部類に入る作品だと思っていました。

と言うか、当時何に一番驚かされたかと言うと、作画者である「金井たつお」が、あの「ホールインワン」「いずみちゃん グラフィティー」など美少女・パンチラ物を描いていた「金井たつお」が、『こんな凄い剣さばきの劇画が描けるのか!』という事に一番驚愕しましたw

ちなみに、私が知らないだけかも知れませんが、「新選組」を扱ったマンガで「秀逸な内容の作品」というものにあまりお目にかかった事がありませんので、かえってこの「工藤かずや・金井たつお」の「新選組」が光って見えてしまうのかも知れません。しかしまあ、不思議な話ではありますよねえ。「新選組」のマンガなんて、いかにももっとたくさん出されていてもおかしくないとは思うのですが、なぜかあまり見かけないんですよねえ。

しかも、です。この「工藤かずや・金井たつお」の「新選組」でさえ、「山南切腹」で事実上ストーリーは終わってしまっていて、いかにも終わり方としては消化不良な形なんですよ。と言うか、正直「史実うんぬん」にこだわる人にはあまり馴染まない作品であるのも事実です。工藤かずやらしく、ひたすら「男くさい」演出にこだわった「新選組」作品になっていますから。
(※ちなみに同じ工藤かずや原作の「新選組」作品として「THE EDGE 新撰組」という作品もあるらしいので、以前少しネットで調べてみた所「かなり微妙」な雰囲気の作品でしたので、ここではスルーしておきますw)


工藤かずや原作の作品を評するにあたって、総じて言える事は
骨太な原作・脚本である」
という事だと思います。

「骨太」などという言葉を使うと抽象的過ぎてよく分からないかも知れません。
似た傾向の物書き(原作者・脚本家・小説家)の名前を挙げるとすれば、
隆慶一郎の作品」
マンガ作品では「花の慶次」が有名ですが、他にもいくつか時代小説を手掛けています。それら隆慶一郎の作品に見られる特徴も「骨太」という事だと思います。

ただし隆慶一郎の場合は「ヒューマンドラマ」といったような形での「骨太」表現は少なく、その大半は「男(漢)のドラマ」という形での「骨太」表現に限定されます。

「パイナップルARMY」という作品が、「希有な存在」として私の記憶に留まり続けているのは、
「ヒューマンドラマ」「男(漢)のドラマ」という二つの「骨太」が、絶妙なバランスでもって作品を肉付けしている、
という所に、おそらく理由があるのだと思います。

このような作品に出会える機会は、昔であればともかく、近来では極めて稀です。



そんな訳で、最後にもう一度、「パイナップルARMY」について書いておく事にします。

この作品の終盤は「テロ組織との闘い」という事に話の軸が移っていきます。

今から四半世紀前の時代の話なんですけどね。ISISなどが台頭してきている今の時代と、あまり本質は変わっていないようにも感じられます。

ちなみに「パイナップルARMY」の終盤に出て来る「テロ組織」の中枢人物が実は「日本人」で、テロ組織と闘う側のエース(最後の切り札)も「日本人」という、今の時代にそんな話を書いてしまったら、『ありえねえ~よ!』といった反応で埋め尽くされてしまうのかも知れません。

当時の時代風潮としてはアリだった「世界で活躍する(?)日本人」という舞台設定。

ただし「パイナップルARMY」という作品自体については、前回の記事でも少し書きましたように、日本に関係する描写はほとんどありません。上記で私が抜粋して載せている「日系人女性」の話と、パリでの日本庭園の話は例外中の例外であって、通常のストーリーではほとんど日本に関係する描写は出来てきません。上記で大沢氏も書いているように、主人公ジェド・豪士が傭兵になった過去についても、作品の中で触れられる事はありません。

この作品は一応主人公が日本人ですが、良くも悪くも「日本」にコダワル姿勢はかなり薄いです。
その姿勢をどう受けとめるのかは、読者によって様々でしょう。少なくとも当時の私は、何の抵抗もなく受け容れて読んでました。そして純粋に「物語の面白さ」を味わっていたのです。


長くなりましたが最後に、物語が最終局面に向かって進んでいる場面の一部を紹介して、今回の「マンガ関連の記事」の締めとさせて頂きます。興味をお持ちになった方は是非単行本を買って読んでみて下さい。

(以下、「パイナップルARMY」の「その男・・・」という話の冒頭部分から、一部を抜粋転載します)
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(以下略)

(終)

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マンガで見る「外国」。原作者「真刈信二・工藤かずや」前編。香港

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私のブログでは大体年に2回ぐらいのペースで(まあ大体自分が唐突に思いついた時や書きたい時に書いているだけなので、実際には不定期なんですけど)私の趣味の一つでもある「マンガ」関連の記事を書いています。

今回は久々にそのマンガ関連の記事を書きます。
前回やったのが今年4月の「村上もとか編」だったので、まあ大体半年ぶり、という事になりますか。

(※過去にこのカテゴリで取り上げたマンガ家及び作品は以下の通りです)
安彦 良和『王道の狗』(2012/01/22)
みなもと 太郎『風雲児たち』(2012/04/29)
山岸 凉子『舞姫 テレプシコーラ』(2012/09/02)
関川 夏央・谷口 ジロー『「坊ちゃん」の時代』(2011/12/26)
星野 之宣『ヤマタイカ』、『宗像教授シリーズ』(2012/11/04)
木村 直巳『天涯の武士』(2013/01/14)
森田 信吾『明楽と孫蔵』、『栄光なき天才たち』(2013/04/21)
村上もとか『六三四の剣』、『龍-RON-』、『JIN-仁-』(2014/04/05)


今回取り上げるのは「マンガ家」ではありません。「マンガ原作者」です。

ちなみに私がたどってきたマンガ遍歴から言えば、私が好きになったマンガは「原作者付き」の場合が多かったような気がします。ですから、私のマンガに対するコダワリというものを語るにあたっては「マンガ原作者」という存在を外して語る事は難しいと思います。

しかしまあ、「マンガ家とマンガ原作者の関係」の事について本格的に書こうと思ったら、とても一言では言い表せませんので、今回はその辺の話にはあまり深く首を突っ込む事は致しません。


と言う訳で、さっそく本題に入りたいと思います。
今回私が取り上げる「マンガ原作者」は“真刈信二”“工藤かずや”です。

と言いましても、唐突に「マンガ原作者」の名前を挙げられましても、世間ではあまり「マンガ原作者」の事が認知されているとも思えませんので、この両者の名前を聞いてすぐにピンとくる人は少ないと思われます。

武論尊”とか“雁屋哲”のようなメジャーなマンガ原作者であれば話は別ですけど、真刈氏と工藤氏はそこまでメジャーなマンガ原作者という訳でもありませんから。

更に言えば、この真刈氏と工藤氏の両者が「メジャーなマンガ原作者ではない」というのは(ただしマンガファンにとってはそれほどマイナーな原作者という訳でもないと思いますけど)、実は「彼らの独特の作風にも関係がある」と、私個人の認識ではそのように考えています。

そもそも“武論尊”は「北斗の拳」や「ドーベルマン刑事」、“雁屋哲”は「男組」と、少年誌の世界で大ヒットを飛ばした事が、メジャーへの階段を駆け上がるきかっけとなっています。

しかし、真刈氏と工藤氏の両者は違います。基本的に青年誌の世界を中心として活動してきたマンガ原作者です(ただし工藤氏に限って言えば、少年サンデーでもいくつか原作を手掛けており、「舞」という佳作も産み出しているのですけど)。


何と言っても、とにかく、真刈氏と工藤氏の作風は、
渋いのです。渋すぎるのです。
誰が読んでも分かりやすい“武論尊”や“雁屋哲”などの作風とは違って。

まあ一言で言えば「マニア向け」という事になるんでしょう。
そして私は見事に、そのマニアの一人になってしまった訳です。

今回(前編で)取り上げる“真刈信二”という原作者。
「マニア向け」という事であれば、工藤かずやよりも真刈信二のほうが上でしょう。

なにしろ、彼が青年マンガ誌の世界で主に取り扱ってきたテーマというのは、
企業もしくは国家を対象とした国際社会における取引、交渉、危機管理
というものです。

そりゃあ、こんな地味で渋すぎるテーマばかり取り扱っていれば、メジャーな原作者にはなれませんわなw
まあ私は逆に、そこに惹かれるんですけどw


真刈氏の主な原作マンガとしては、
「勇午」「オフィス北極星」「クライシス 危機管理の男」「どうだ貫一」「夢の掟」
などがあります。
※真刈信二 Wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%88%88%E4%BF%A1%E4%BA%8C

これらの作品の中で、「勇午」という作品は、これは私の個人的な感触に過ぎないのですが、(真刈氏の作品としては例外的に)それなりに人気のある(あった)作品だと認識しています。

と言いますか、実際連載期間も長かった訳ですし、人気がなければこんなに長くは続かなかったでしょう(私は最近あまり読んでないので知らないのですが、まだ連載が継続中なのかも知れません)。
勇午(1) (アフタヌーンKC)勇午(1) (アフタヌーンKC)
(2012/11/05)
真刈信二、赤名修 他

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※勇午 Wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%87%E5%8D%88
Wikiでは連載期間は1994年から現在まで、となってます。

確かに私自身、1995年から2000年までの頃、一番好きだったマンガは、この「勇午」という作品でした。

長く連載をしていて、それなりに知名度の高い作品なので、作品内容を解説する必要もないのかも知れませんが、一応作品の概要をWikiから転載しておきます。

(以下、Wikiより抜粋して転載)
成功率97.4%を誇るフリーの交渉人・別府勇午を主人公にした社会派サスペンス。『月刊アフタヌーン』連載版では主に海外が舞台となっている。毎回作者の綿密な現地取材に基づいて、各国の社会情勢、文化事情、宗教観、社会悪、必要悪にぶつかり、悩みながら解決の糸口を模索する勇午の姿が描かれた。ひとつのエピソードにつき、約1年程度の連載である(短編の日本編を除く)。『イブニング』連載版では、主に日本各地が舞台となっている。

シリーズを通して、主人公・勇午がその交渉の過程で必ずと言っていいほど拷問を受けるという演出がなされ、特に『アフタヌーン』版では各国の文化を背景にした様々な趣向の拷問が描かれた。


このブログに来られるような方でしたら、私が歴史マニア、特に世界史国際関係史のファンである事はご存じかと思います。そういった私の趣味(属性)からすれば、この「勇午」という作品を好きになるのは当然の事として、ご納得頂けると思います。

当時は(1995~2000年頃は)今現在のようにネット環境が(特にネット動画が)充実していた訳でもありませんで、NHKのBS放送を除けば、生の外国の雰囲気に触れられる機会はそれ程多くはありませんでした。ですから、この「勇午」のように「外国の空気に触れたような気分になれる」作品は、この当時はかなり新鮮に感じられました。


まだ「勇午」という作品の紹介の途中で、次回(後編で)取り上げる作品について紹介するのもなんなのですが、ちょっと先に紹介しておきます。

次回の記事で取り上げる予定の作品は、“工藤かずや”原作の「パイナップルARMY」です。
パイナップルarmy 1 (ビッグコミックス)パイナップルarmy 1 (ビッグコミックス)
(1986/04)
工藤 かずや

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※パイナップルARMY Wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%ABARMY

「パイナップルARMY」という作品をご存じの方はすぐに気が付かれる事と思いますが、「パイナップルARMY」もストーリーの舞台は外国です。ただ、「パイナップルARMY」の場合は「勇午」と違って「日本」という要素が作品内で語られる事はほぼ皆無です。
しかし、断言しておきますが、この「パイナップルARMY」という作品こそが、私がその当時(1985~1988年頃)一番好きなマンガだったのです。しかもこの作品は今でも、私にとって五本の指に入る傑作だと思っていますが、詳しくは次回(後編で)書きます。


とりあえず話を「勇午」に戻します。

なぜ今回「勇午」を取り上げたのか?と言いますと、実は「時期的な要素」も関係しているのです。

その「時期的な要素」と言いますのは、先日から行なわれている
香港の民主化デモ」
の事です。
また更に付け加えるならば、もう既に忘れられている感もありますが、
スコットランド独立」問題
も多少関係しています。

仮にそのような「時期的な要素」が無かったとしても、この2つの作品(「勇午」と「パイナップルARMY」)については、いつかは必ず取り上げるつもりでいましたので、まあ今回はそういう巡り合わせが『ちょうど来てしまったかな』と感じられましたので、敢えて取り上げました。


まずは「香港の民主化デモ」の件について。

この「勇午」の単行本6、7、8巻で香港の事を取り上げた話がありました。ちょうど香港がシナに返還される直前の頃、1996年頃の香港を舞台にした話です。マンガが連載していたのも、ちょうどその頃だったと思います。ですから、ほとんどライブの感覚で作品が発表されていた訳です。

ストーリーの柱となっているのは、もちろん「香港返還」です。

ストーリーの概要を説明しますと、「香港返還」を目前に控えて、昔から香港に住んでいる“香港人”の勢力と、北京政府の息がかかった香港の新勢力との対立に、清朝末期の香港領有権にまつわる伝承なども絡みつつ、その対立の中で主人公・別府勇午が“交渉人”となって活躍する、といったものです。
勇午(7) (アフタヌーンKC)勇午(7) (アフタヌーンKC)
(2012/11/05)
真刈信二、赤名修 他

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(以下、「勇午」単行本7巻、8巻より抜粋)
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今回のテーマの一つでもある“香港人”という事について。
それについて語る前に、この「勇午」という作品、また「真刈信二原作の作品」という事について先に触れておきましょう。

「勇午」という作品は、上記のWikiの概要にもありますように、“交渉人”別府勇午が世界を渡り歩いて交渉という仕事に命を懸ける、というストーリーです。おそらくこの作品を十分に理解する為にはある程度の世界史国際政治の近現代史、および地理の知識が必要だと思います(まあこの作品の内容によって、逆にそれらを学ぶ事が出来る、とも言えますけど)。特に欧州を舞台にした話などにそういった傾向が顕著で(8〜10巻の英国編、15〜17巻の東欧編、20〜21巻のパリ編など)、舞台背景や状況設定が相当ややこしいです。実はその「ややこしさ」も、この「勇午」という作品の一つのウリでもあり、ストーリー設定や演出のキーポイントとなる事も時々あります。

そして、なんと言っても「真刈信二原作の作品」の一番大きな特徴というのは「意外性」だと思います。

ですから、様々な形で「意外な物」を持ち出してきて、例えばそれは「(日本とは異なる各国の)社会文化、もしくは価値観」だったりするのですが、そういったものを利用してストーリーを盛り上げていって、また、急展開「意外な方向」へ話を飛躍させたりします。まあ、そういった演出を多用する以上は「あまりにも無理のある展開」とか、「あまりにも強引な結末」とか、そういう場面が増えてしまうのは宿命的とも言えます。「意外性」ばかりを追求した挙句、『これは推理小説か何かか?』と言わざるを得ないような展開の話も多々目にしました。

あと「勇午」という作品について言えば、主人公・別府勇午の「個人的な感情表現シーン」がほとんどない、という事も気になります。意図的にそのようにしているのかも知れませんけど。交渉という仕事においての「感情表現」は多々あるのですが、勇午自身が抱いている「好き、嫌い、欲しい、寂しい」などの表現シーンはほとんどありません。ですから勇午という存在は、言ってしまえば「記号化された“交渉人”別府勇午」であり、「生身の人間」としてはあまり私の目には映らないんですよねえ(「生身の人間」として、「痛い!」という表現シーンだけはお約束の拷問シーンのせいでメチャメチャ多いんですけどw)

あと真刈作品の特徴としては「尻すぼみが多い」という事ですかねえ。
私が「勇午」を楽しく読めていたのは2000年代前半ぐらいまででしたし、「オフィス北極星」も前半とは打って変わって終盤はかなりグダグダな形でしたし、「夢の掟」に至っては、あっという間に打ち切られてしまいましたしねえ。
あ、「クライシス 危機管理の男」は一応最終回までちゃんと描かれてましたね。

とりあえず真刈作品の特徴の解説としては、ここまでにしておきます。

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話を「香港」について、に戻します。

上記の作品内で『俺は香港人として闘っている』と喋っている黒髪の男は、香港の“黒社会”(=マフィア、ヤクザ)のボス、洪薫(ホンファン)という男で、主人公・勇午の交渉相手です。

ちなみに私自身は、実際に香港へ行った経験はありません。北京と上海には何度か行った経験はありますが。

実際に行った事も無い人間が言っても説得力があるのかどうか疑問ですが、また作品内で述べられている勇午のセリフの中にも、そういったセリフがありますが、
“香港人”などというものが本当に存在するのだろうか?
というのが今回の「香港民主化デモ」に対する私の率直な疑問です。


確かに今現在、香港で民主化デモをしている人々を指して“香港人”と呼ぶべきなのかも知れませんが、彼らは本当に“香港人”と呼べるような人々なのでしょうか?

報道などによると、デモが始まった頃と比べて、今はかなり民主化デモの熱は冷めているらしい
(※と思っていたら、ここへ来て再びデモに人々が集まってきているらしい。しかし、その結果については「懐疑的である」、という私の認識に変わりはありません)

前回のブログ記事で 「香港の抗議活動」を伝えるNHKの報道スタンス を解説しましたが、そこでは中共NHK
『民主化と、(経済)と、どっちが大事なんだ!』
という恫喝を持って、香港の人々にプレッシャーを掛けていました。

そして実際、香港の人々にとって、その中共(日本でのNHK)のプレッシャーは相当効いたのでしょう。

香港に行った事の無い私でも、なんとなく分かります。
『経済(金融)の繁栄があってこそ、香港である』などという事は。
経済(金融)こそが香港の生命線である事は間違いありません。そこを突かれれば、香港は全く抵抗する術を失ってしまうでしょう。

これはある意味、日本に対しても同様の事が言えます。特に「敗戦後の日本」という国は「経済発展」という事以外には全く目もくれずに生きてきたような国です。だからこそ、少し前まで頻発していたシナ国内における「反日デモ」など、そういった日中の国際紛争が起きる度に、(今回の香港の場合と同じように)中共政府は
(中国との貿易その他の利権)が惜しくないのか!』
という恫喝を繰り返し仕掛けてきた訳です。

経済を人質にして恫喝する」

別に日本や香港に対してのみならず、こういったシナによる恫喝はどこの国に対してもある程度の効果はあるのでしょうが、シナという国と隣り合わせにいて、しかもシナとの経済的な結びつきが強い日本や香港に対しては、特に「経済発展」が至上命題でもあるかのような日本や香港に対しては、こういった恫喝が一番効きます。

しかし、まあこれは多少希望的な要素も含まれますが、我々日本人は“香港人”とは違います。

我々は「しっかりとした歴史と伝統があるからこそ、日本人なのです。

翻って見て、“香港人”はどうでしょうか?

19世紀に英国の植民地としてスタートした香港。そこに住んでいる人々に、我々日本人が抱いているような歴史観や伝統意識があるとは到底思えません。もちろん日本の皇室のような存在も全くありません。

「香港の民衆が蜂起して英国からの独立を勝ち取った」というのならばまだマシだけれども、「香港返還」でさえ、そうではありません(むしろ意識としては「香港返還」というよりも「シナに併呑される」という意識のほうが強かったのではないでしょうか?)。


“何々人”などと呼ばれるべき存在は、「外敵と戦った事のある人々。戦争した事のある人々」であるべきで、香港はそうではありません。
少なくとも台湾は、中共と対峙する軍隊を持っているからこそ、台湾人としてのアイデンティティを保持していられるのです。
しかし、香港にはそれが無い。


勇午の作品内でもそういった場面がありますが、「返還を目前に控えて、海外に資産を持ち出して亡命を図る」などという発想が自然に出て来るという事自体、まさに
「“香港人”など、実際には存在しない」
という事を証明しているようにも思えます。



さて次に、香港繋がりという訳でもありませんが、英国の話に移ります。

「スコットランド独立」問題で、にわかに脚光を浴びました英国の民族問題ですが、まあ国民投票が不発に終わって以降はあまりメディアで取り上げられる事もなくなりました。

ちなみに青山繁晴さんなども、この問題を日本の国連・常任理事国入りなどと絡めてかなり大きく取り上げていたように感じました。

後付けで言う訳でもないのですが、私は案外楽観的に見ていました。それよりも、英国の民族問題と言ってすぐに想起されるのは、10~20年くらい前の感覚で言えば
「北アイルランド問題」
だったと思うのですが、最近は日本のメディアではほとんど耳にする事は無くなりましたよね。

まあ私は英国に関しても、実際に足を運んだ経験がある訳じゃありませんので(しかも英語力も相当低いので)詳しい事情など全然知りませんけれども、そういった民族問題と日常的に接している英国が、「スコットランド独立」問題で下手を打つなどと、私にはあまり想像できませんでした。


と言う訳で、ここでもう一度「勇午」を取り上げます。
「勇午」の中で取り上げられる英国の話は、やはり「北アイルランド問題」です。
と言うよりも、ズバリIRA(アイルランド解放戦線)」の話です。

(以下、「勇午」単行本8巻、9巻より抜粋)
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上記の作中では「ダッカ・ハイジャック事件」への指摘があったり、あと、ロイズ(英国の保険市場)の話などが出て来ています。

「ダッカ・ハイジャック事件」は日本人にとっては知っておくべき重要な事件だと思うのですが、マスメディアの口からそういった話を耳にする機会はほとんどありません。

あとロイズと言えば、この話の流れで言うと、やはり「パイナップルARMY」と同じ作画者(浦沢直樹)の「MASTERキートン」を思い起こす方もいらっしゃるでしょう。

ちなみマンガ作品でIRAが大きく取り上げられるのは「勇午」か「パイナップルARMY」くらいのもので(私の予想では多分ゴルゴ13あたりでも取り上げられているのかも知れませんが、私、マンガマニアとか言ってるくせに実はゴルゴ13には疎いのですw)、その辺の事も含めて、詳しくは次回の「パイナップルARMY」の記事で書きたいと思います。

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テーマ:報道・マスコミ - ジャンル:政治・経済

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