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処士策論

「処士」(しょし)とは、仕官していない人、民間の人、在野の人のこと

来年の幕末薩摩の大河ドラマを来月に控えて、幕末関連の話などを少々(前編)

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今回、サブタイトルは上記のように書いていますが、実は今回の記事は、2年前に書いたこの時の記事、
あまりにも内容が酷いので改めて「大河ドラマと日本人」の書評解説(2015/12/26)

この記事の一番最後に、私は以下のように書きました。
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(以下、一部抜粋して引用)
本当に、私は会津ファンや会津にお住まいの方々に同情しますよ。

会津を擁護しようとする歴史家は、こんなイカれたジイさんとか、もう亡くなった早乙女貢とか、こんな連中しかいないんですかね?

本当にお気の毒だと同情しますので、次回の記事ではこのシリーズの締めとして、司馬遼太郎が書いた会津に関するエッセイを紹介する形で、私の会津観を語らせて頂きたいと思います。
(以下略)
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という事で、実は2年前にその「幕末の会津関連」の記事を、私は既に書きあげていたのです。

しかし、この直後に「例の日韓慰安婦合意」の問題が勃発してしまいまして(※というかこのブログ自体を閉鎖すると、その時は息巻いていたのだが)その時に書いた「幕末の会津関連」の記事は、そのまま「お蔵入り」にしていたのです。

しかし、来年は「幕末薩摩の大河ドラマ」が放送されますので、多分会津の話も少しは出るでしょうから(※少なくとも、間違いなく「西南戦争」の話はやるはずですから)、まあこれを機に「お蔵入り」していた記事を公表しようと思いまして、今回ここにアップする事にしました。


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紹介するのは司馬遼太郎の「街道をゆく」の「奥州白河・会津のみち」です。

司馬遼太郎は1988年(昭和63年)7月に奥州白河・会津を訪れて、紀行文(エッセイ)「街道をゆく」を記しています。

司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ(朝日新聞出版社)
白河・会津のみち
http://publications.asahi.com/kaidou/33/index.shtml
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(以下、一部抜粋して引用。(中略)やフォントは私の編集による。ピクチャはNスペ「街道をゆく」より転載)
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(※冒頭「奥州こがれの記」の章から始まって、「関東と奥州と馬」「新幹線とタクシー」「二つの関のあと」「江戸期の関守」「白河の関」「黄金花咲く」と続く部分は割愛。その次の「東西戦争」の章より以下、引用開始)
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東西戦争

 つちのえ・たつの年、音でいうと戊辰(ぼしん)になる。
 西暦でいえば、一八六八年である。ややこしいのは、この一年のあいだに、元号が二種類あったことである。
 このとしに、慶応四年が明治元年(九月八日に改元)にかわった。元号がふたつあるために、このとしにおこった国内戦争のことを、とくに十干十二支でもって、
「戊辰戦争」
 というのが慣わしになっている。

 戊辰は、六十年ごとにやってくる。私どもが白河にやってきたのは、明治維新(戊辰)から三度目の戊辰である一九八八年だったから、白河では戊辰戦争にちなむさまざまな行事がおこなわれていた。

 戊辰戦争は、日本史がしばしばくりかえしてきた“東西戦争”の最後の戦争といっていい。
(中略)
 戊辰戦争は、西方(薩摩・長州など)が東方を圧倒した。
 しかしながら新政府は東京に首都を置き、東京をもって文明開化の吸収機関とし、同時にそれを地方に配分する配電盤としたから、明治後もまた東の時代といっていい。
 - 東北は、そういう“東”じゃありませんよ。
 というむきもあるかもしれないが、奥羽は、源頼朝以後、関東の後背地としてやってきたから、右の図式でいう“東”に属すると私はおもっている。
 - そうじゃなくて、東北は第三の一点です。“東”じゃないんです。
 というような力み方が、東北にある。これはひょっとすると、東北人のひそかな楽しみのひとつである自虐性 - もしくは高度な文学性から出た自家製の幻想かもしれない。
 “西方”には、そういう幻想がない。たとえば、西方のなかの四国だけが“私どもは南方で、西方じゃありません”と拗ねているようなことは、まずありえない。
(中略)
 子規の終生の保護者だった叔父の加藤恒忠(拓川)は、民権気分がつよく、かつフランス語による教養の浅からぬ人だったが、
「松山が薩長に負けたはずだよ」
 と、よく同郷の人に語っていたといわれる。拓川は、薩長の危機意識のつよさと、それにむかっての藩制・軍制・兵器の改新の歴史が松山藩よりも数歩さきんじていた、とからりといって、それっきりの感情しか、戊辰の歴史についてはもっていなかったように思える。
 そこへゆくと、東北、ことに会津はちがう。
(中略)
 戊辰戦争について、簡略に記しておきたい。
(中略)
 その上、徳川方の敗北をいっそう決定づけたのは、慶喜の戦意のなさだった。当時、慶喜は、家康以来のやり手といわれた。ところが、かれは水戸学の宗家ともいうべき水戸徳川家の出で、水戸学的歴史意識がつよすぎ、後世、逆賊といわれることをおそれた。かれは五万の兵を擁しながら、敗者という政治的演出をした。五万の兵をおきすて、こっそり大坂城を脱出し、海上にのがれて自分の軍艦にのり、江戸へ帰ったのである。以後、ひたすら恭順という政治姿勢をつらぬいた。眼前の現象に対する政治というよりも、後世に対する政治だったともいえる。
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 あわれだったのは、会津藩主松平容保だった。慶喜は大坂城を脱出するとき、容保を小脇にかかえるようにして放さなかった。会津兵と容保をきりはなすためだった。会津兵たちは、大坂城に籠城して薩長と戦えと叫びつづけていた。

 江戸に帰った慶喜は、容保をすてた。容保と接触することは、会津とつながることになる。会津とつながっているという印象を世間にあたえれば、恭順の印象がにごってしまう。
 慶喜は、容保が江戸城に登城することさえ禁じた。慶喜自身、やがて江戸城を出、寛永寺で謹慎し、ついで水戸へ帰り、政局の舞台からまったく姿を消すことになる。
 容保は、会津に帰らざるをえなかった。

 明治維新は、革命としか言いようがない。革命には、血祭りが要る。慶喜の首を刎ねれば千万言を用いずして世がかわったことを満天下が知るのである。総帥の西郷はそのことをよく知っていて、軍をひきいて江戸にむかう途上、しきりにそのことを言った。

 ところが、当の慶喜のほうが役者が上だった。かれは勝海舟に全権をあたえて江戸を開城してしまったため、新政府軍は血祭りのための目標をうしない、結局は会津藩を犠牲の壇にのせざるをえなかった。

 奥羽(東北地方)諸藩は、会津藩に同情的だった。新政府は、当初、みずから労することなく奥羽諸藩をもって会津(庄内藩をもふくむ)を討たせようとした。奥羽の側はその手には乗るまいとし、この間、さまざまないきさつがあって、情勢が転々した。

 結局、奥羽は、反薩長という感情のもとに結束した。これに北越諸藩(現在の新潟県の長岡・新発田・村上・村松・三根山・黒川など)を加え、「奥羽越列藩同盟」が結成され、その会議所が現在の宮城県の白石におかれた。敵は、新政府軍であった。以後、半年、戦乱がつづく。

 以上が、戊辰戦争発端のあらましである。

 最初の戦場は、越後だった。長岡藩はよく戦い、一時期、横浜あたりの外国人のあいだで、新政府の存立をあやぶむ声も出た。

 この間、薩長にとって、危険な綱わたりがつづいた。
 もし徳川慶喜が恭順せず、その領地も新政府にわたさず、箱根をもって第一防禦線とし、関東・奥羽・北越の諸藩をひきいて新政府軍と決戦したとすれば、日本史はべつの運命をたどったはずである。むろん、いずれが勝つにせよ、アメリカの南北戦争と同様、日本の東西の感情の亀裂は深刻なものになったにちがいない。
 この点、統一日本の成立の最大の功績者は、徳川慶喜であるというほかない。
 慶喜は、みずから舞台を降りた。このため、奥羽越列藩同盟は、
 「徳川」
 という帽子をかぶることができなかった。
 つまり、列藩同盟は、徳川家への忠誠心という倫理を結束のしんにすることができず、せいぜい薩長への反感と会津への同情心という二つの感情を共通項にしてまとまらざるをえなかった。
 この程度の感情が長つづきするわけはなく、まして藩と個々の生命を犠牲にするほどの大義名分にはなりにくかった。
 まず秋田藩(佐竹氏)が脱落して新政府側につき、つづいて新庄・本庄・矢島、そして津軽弘前藩も、これにならった。
 それでも、仙台(伊達氏)、米沢(上杉氏)、それに会津という三大藩が存在するかぎり、奥羽の戦力は軽いものではなかった。
 その最前線が、越後長岡藩だった。新政府軍はゆるすかぎりの兵力を集中してこれと戦い、激戦のすえ、これをつぶした。
 この報は、列藩同盟の気力までつぶした。同盟の中心的存在だった仙台・米沢の両藩が降伏したのである。
 会津藩は、孤立した。
(以下略)

(※続く「関川寺」の章、「野バラの教会」「山下りん」「徳一」「大いなる会津人」「市街に眠る人びと」と続く一連の章は割愛。その次の「会津藩」の章より以下、引用再開)
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会津藩

 会津藩について書きたい。
 なにから書きはじめていいかわからないほどに、この藩についての思いが、私の中で濃い。

 藩祖は、保科正之(一六一一 ~ 七二)である。この人の思想と人柄が、のちのちまで会津藩を性格づけた。
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 かれは二代将軍秀忠の傍流の子だったが、幼いころ信州高遠藩の保科氏の養子にやられ、二十をすぎて高遠藩主になった。前将軍の子であり、現将軍家光の異母弟でありながら、わずか三万石の小身だった。べつに不足を抱いたふうはない。
(中略)
 教養という点でも、同時代の大名たちからぬきん出ていた。深く朱子学を学び、さらにはこの時代の新学問ともいうべき神道に傾倒したことで特徴的であった。江戸初期にはめずらしいほどの日本的な思想家だったといっていい。
 法制家でもあり、商工業の育成者でもあった。
 もっとも重視したのは、風儀だった。
 風儀とは、文化のことである。士風という、精神的慣習をつくることにつとめ、その「家訓」十五カ条の第六条にも、
「家中、風儀を励むべし」
 と、定めている。
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 幕政にも参加した。
 幕政家といっても、政略的なことには参加せず、むしろかれが得意とする法制(『武家諸法度』など)の制定に参画した。
(中略)
 藩としての精度が高かったために、江戸時代、国事にこきつかわれた。
 たとえば江戸末期、北辺をロシアの南下でおびやかされはじめると、江戸幕府は、会津藩を動かして、はるか北辺の警備にやった。
 北海道にはもともと松前藩が所在するのだが、弱体でどうにもならず、すぐそばの津軽藩に警備上の動員令を出したものの、藩兵が弱くてたのみにはならなかった。
 やむなく会津藩がつかわれたのである。
 この藩は北辺の各地に陣屋を設けて国家の前哨の役目をしたが、寒さのために罹患して死ぬ者が多く、いまも北海道やその属島に会津陣屋あとや藩士の墓がのこっている(このことについて、国家は一度も旧会津人に感謝をしていない)。
 会津藩にとっての最大の難事は、幕末、幕府が、ほとんど無秩序になった京都の治安を回復するために、会津藩主松平容保(一八三五 ~ 九三)を起用して“京都守護職”にしたことである。
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 京都守護職は、伝統的な機関ではない。
 幕権の京における非常警備軍ともいうべきもので、当然ながら政治的要素を多量にもっている。
 政治・機略・策謀といったことは、会津藩のにが手としてきたものであった。初代以来、幕府の行政に参加したことがあっても、政治的な動きをしたことがなく、その感覚ももちあわせていなかった。いわば生真面目すぎる藩風だった
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 すでに、京における長州藩や浪士たちが過激公家とむすびついて幕府の外交政策に反対し、騒擾(そうじょう)をきわめているばかりか、薩摩藩もこれにくびをつっこんで、その機略は端睨(たんげい)すべからざるものがあった。
 当時、尊王思想が爆発的に流行していた。幕府がこの藩をえらんだ理由の一つは、藩祖以来、尊王の面での老舗だったということもあったろう。
 この命がくだったとき、松平容保は江戸屋敷にあり、病いのために臥せていた。かれは命に対し、自分の不才と藩が東北に僻在していて家臣たちが都に馴れないことを理由に、再三ことわった。
 が、幕閣は執拗だった。
 ついに承(う)けたとき、国もとの会津から家老の西郷頼母と田中土佐がいそぎ出府して、翻意を乞うた。
 「この時勢に、この至難の局に当るのは、薪を背負って火に入るようなものでございます」
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 容保はあとで、江戸家老の横山常徳などをよび、
「頼母らが、そのようにいう。自分も当初そう考えてきた」
 と前置きして、
「しかるに、台命(将軍の命令)はしきりである。そのつど固辞してきたために、幕閣のある筋では“会津は一身の安全をはかっている”と心外なことを言いはじめた。いうまでもなく、わが家祖(保科正之)の遺訓に、宗家(徳川将軍家)と存亡をともにすべしとある。もはや遺訓に従って、火中に入るほかないと決心した」
 最後に、

 君臣唯京師(ただけいし)の地を以て死所となすべきなりと、議遂に決す。(山川浩遺稿『京都守護職始末』)
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 という結論になった。一説では君臣相擁して泣いたともいわれる。会津藩はその後の運命を当初から予感し、承知のうえで凶のくじをひいた。史上めずらしいといえるのではないか

 ついでながら、前掲の書の著者山川浩(一八四五 ~ 九八)は、同時代の当事者集団のひとりであった。
 浩は、旧藩士である。その父は仕置家老(一代家老)にまで進んで早世し、浩自身、容保が京都守護職になって上京した文久二(一八六二)年、容保に命ぜられてつねに側近に侍した。この間のことを身をもって知る立場にいた人である。
 激動期の当事者のひとりが、後年、冷静な態度で史録を書いたという例は、さほどに多くない。会津は、一人の山川浩を持ったことがせめてもの幸いだった。

 明治維新というのはあきらかに革命である。
 革命である以上、謀略や陰謀をともなう。会津藩は、最後の段階で、薩長によって革命の標的(当時でいう“朝敵”)にされた。会津攻めは、革命の総仕上げであり、これがなければ革命が形式として成就しなかったのである。
 会津人は、戊辰の戦後、凄惨な運命をたどらされた。
 かれらは明治時代、とくに官界において差別された。
 かろうじて山川浩が、かれを尊敬していた土佐の谷干城の好意で軍人になった。ついで高等師範の校長になり、さらには貴族院議員になったりして、他の同藩の士よりもめぐまれていたが、しかし一日として心を安んじたことはない。
 その晩年、旧藩のことを雪辱すべく右の史録を書いたのである。
 堂々たる修史事業で、一人でできるようなものではなかった。幸い、九歳下の弟がいて、これに協力した。
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 弟とは、山川健次郎(一八五四 ~ 一九三一)のことである。健次郎もまた、その少年期は数奇だった。戊辰戦争のとき、少年隊である白虎隊にいったんは編入され、年齢が一つ不足していたために外された。このことが、生涯溶けることのない心中の病塊になった。
 会津鶴ケ城が落城し、容保が降伏してから、処分がきまるまで、藩主および藩士団は城外の猪苗代と塩川の地に謹慎を命じられた。全員が捕虜のあつかいだった。この時期、藩の儒者秋月韋軒たちが、会津がほろんでもその種子をのこすべきであるとして、ふたりの少年の逸材をえらび、越後口にむかって脱出させたのである。少年とは、山川健次郎と小川亮だった。
 山川健次郎は明治三年、北海道開拓使の留学生にえらばれ、渡米し、イェール大学で物理をまなび、明治期の物理学の開拓者になった。
 かれは、帝大の前身の教授になり、明治三十四年、東京帝大総長、ついで九州帝大総長、ふたたび東京帝大総長にもどり、京都帝大総長を兼ねた。よほどの徳望の人であったことは、この職歴でも察せられる。
 日常、白虎隊の話になると涙のために言葉が出なかったといわれる。

 その兄の浩が晩年、『京都守護職始末』を書きはじめたとき、健次郎がたすけただけでなく、現在の東大史料編纂所の前身の研究機関につとめていた旧松前藩士の池田晃淵に史料さがしや校訂を乞い、中途で浩が病死してからは、晃淵と健次郎の手で稿を完成させた。
 原稿は明治三十五年にできあがった。健次郎は兄浩と親交のあった土佐人谷干城と、おなじく長州人三浦梧楼にみせた。谷はけっこうではないかと言ったらしいが、三浦は難色を示した。
 三浦は、長州奇兵隊あがりで、もともと陸軍にいた。その後、官界に移り、単純な男ながら、政治好きで、黒幕であることを好んだ。ともかくも明治の長州閥の有力者だったから、山川健次郎は三浦によって長州閥の反応をみたのである。このあたりに、健次郎らしい周到さがうかがえる。
 健次郎は、九年待った。一長州人が出版に反対したため九年も待ったというところに、明治期の会津の立場が象徴的にあらわれている。
 ようやく明治四十四年、ひろく世間に売るということでなく、旧藩の者にだけくばるという形で、刊行された。むろん、非売品だった。ひょっとすると、山川家の金はこのために尽きたのではあるまいか。
 わずか二年のあいだに三版まで版をかさねた。刊行と同時に、早くも古典のような評価をうけたといっていい。

 明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩とした。この地は三万石といわれていたが、実質は七千石程度で、そういう寒冷の火山灰地に一万四千二百八十六人が移った。藩士たちのくらしは赤貧というようななまやさしいものではなかった。あたらしい藩主の容大(移住のときは生後一年四カ月)自身、衣服にシラミがわくという状態で、他は文字どおり草根木皮を食べた。
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 石光真人の編著に、
『ある明治人の記録』(中公新書)
 という本がある。副題が“会津人柴五郎の遺書”とある。
(※ブログ主註:この本の事については、2年前の8月15日にブログで取り上げました)
 旧会津藩士柴五郎は安政六(一八五九)年にうまれて、昭和二十(一九四五)年十二月、八十七歳でなくなった。
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 明治初年、斗南の地から飲まず食わずで東京に出、できたばかりの陸軍幼年学校に入学して、ようやく三食を得ることができた。
 かれは、山川兄弟と似た温厚質のひとだったが、近代史の重要な場に登場する。明治三十三年、駐在武官として北京にいたときに義和団事件が勃発したのである。
(中略)
 しかし権力の座についた一集団が、敗者にまわった他の一集団をこのようにしていじめ、しかも勝利者の側から心の痛みも見せなかったというのは、時代の精神の腐った部分であったといっていい。
 柴五郎の家は、二百八十石という標準的な会津藩士だった。
 籠城中は、父や兄は城内にいた。幼かった五郎は本ニノ丁の屋敷にいたが、ある日、郊外の山荘へひとり出された。
 そのあと、祖母、母、姉妹がことごとく自刃した。末の妹は、わずか七歳だった。木村という家に嫁した姉も一家九人が自刃し、伯母中沢家も家族みな自刃した。かれらは、自発的に死をえらんだ。藩は婦女子も城内に入るようにといったのだが、彼女らは兵糧の費(つい)えになるということで、城内に入ることを遠慮したのである。
 歴史のなかで、都市一つがこんな目に遭ったのは、会津若松市しかない。

長くなりましたので、以下は次回(後編)に続きます。

(※今回は、いつも文末に貼っているテンプレートは割愛します)

テーマ:報道・マスコミ - ジャンル:政治・経済

来年の幕末薩摩の大河ドラマを来月に控えて、幕末関連の話などを少々(後編)

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以下、前回(前編)の続きです。

(以下、一部抜粋して引用。(中略)やフォントは私の編集による。ピクチャはNスペ「街道をゆく」より転載)
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幕末の会津藩

 紀行であることから離れて、すこしむだ口を書きたい。
 幕末・維新の会津藩についてである。私には、つよい同情がある

 ただ、明治維新(一八六八年)が、薩長による討幕という形でおこったことも当然だったろうと考えている
 同時に、その勢いを駆って、薩長政権が封建制を廃滅させたことについても、慶賀する気持でいる。ともかくもこの結果、まがりなりにも国民国家が成立する基礎ができたのである。
 さて、むだ口である。
 江戸封建制が、コメを物質的価値の基礎にすることによって成立したことはいうまでもない。全国三千万石というコメ収穫の二割ほどを徳川家がとり、同時に政府(幕府)運営費とした。
 あとを、二百数十の大名群にわけた。大名の力も権威も、その領地でどれほどコメがとれるかできめられた。侍どもの尊卑も、同様である。石高というコメの大小が基準だった。その価値の源泉は、水田農民がつくる。
「民百姓の労苦をお思い遊ばすように」
 といって、どの大名も、少年時代、耳にタコができるほどきかされて育つ。大名たちは、深層の部分では農民と運命共同体のつもりでいた。げんに、かれらの祖は、鎌倉・室町の農民から出た。
 諸藩の侍もそうで、
「窮すれば農民のまねをせよ。商人のまねはするな」
 といって育てられた。屋敷内に畑をつくることはしても、商いはするな、ということである。
(中略)
 明治維新にさきだつ三十年ばかり前の天保年間(一八三〇 ~ 四四)、コメ依存の幕藩体制は窮しきってしまった。このときに幕藩体制の命脈は事実上尽きたといっていい。
 有名な「天保の改革」は、経済を守ろうとする幕府の最後の抵抗だった。
 むろん対症療法にすぎない。ともかくも庶民にカネを使わさないこと(倹約の強制)を強いた。
(中略)
 幕府にはコメを重んずるという原理があり、これが、経済よりも神学的にまでなっていたため、天保改革が失敗した。
 諸藩はこの点、不見転(みずてん)のように尻軽で、カネ(殖産興業)に身を売るような、無節操さがあった
 とくに雄藩のなかで改革に成功したのは長州藩、薩摩藩で、土佐藩、肥前佐賀藩がこれに次いだ。
 この薩長土肥四藩が、三、四十年後に倒幕の主力になるのだが、気味がわるいほどの偶然さである。

 薩摩藩では、調所広郷という茶坊主あがりの者を大抜擢して藩の財務いっさいをまかせた。調所がやったことは、ひたすらにカネ経済だった
(中略)
 長州藩も、村田清風という、禄五十石という卑(ひく)い者を抜擢して財政を一任するまでは、三度におよぶ一揆や八万五千両の借財で、窮迫しきっていた。
 村田は、商人と交渉して一切の借金を三十七年の年賦にし、専売主義の薩摩藩とは逆に、専売のわくをゆるめて商品生産を活性化した。
(中略)
 会津藩の場合、天保改革における成果は、幕府ほどに惨憺たるものでないにせよ、きわめて小さかった。
 ただし、この藩にも、江戸中期から諸藩で流行してきた商品奨励主義(当時のことばでは殖産興業)の考え方は存在していた。
 そのことは、天保に先んじ、寛政年間(一七八九 ~ 一八〇一)からはじまっている。
 なんといっても、この藩にカネをもたらす工業品目は会津漆器だった。寛政四年、京都から工人をまねき、蒔絵や金粉の技術を精妙なものにした。
 また“国産主役”という役職を設け、会津絹を改良し、他に、会津蝋および会津蝋燭などの改良を計った。
 会津蝋燭はいまでも有名だが、しかし蝋(主として髪のびんつけに使う)そのもののほうは、やがて九州諸藩の蝋と価格競争の点で太刀うちできなくなってゆく。
 寛政期にはよくやったが、会津藩は封建制が精密であったせいか、体質として商工業になじまなかったようである
 なにぶん、危機救済をする財政家は、天才を必要とし、しかも全権を与えねばならない。このため薩摩も長州も、茶坊主に全権をあたえたり(薩)、また五十石の士を藩内閣の首班にすえたり(長)した。会津ではとてもそれができず、つねに世襲の重臣が担当した。

 しかも、天保期でかえって後退する。この藩の天保改革は、幕府の場合と同様、コメ中心にゆりもどった。幕府の方針にひきずられたとみていい。
(中略)
「この種の層を、会津でも興さねばならない」
 この藩は遅まきながら思った。容保が藩兵をひきいて京都守護職として京都に駐屯中のことだった。
 そこで京から国もとに命じ、領内の村々の肝煎(名主・庄屋)の者に苗字帯刀(士分の待遇)をゆるし、それに準ずる者にも、羽織と脇差(足軽の待遇)をゆるした。
 また献金者にも、苗字を名乗ることをゆるした。
 目的は、藩と領民の一体化をはかるというところにあったらしい。ともかくも遅かった。
 しかし遅かったぶんだけ、会津藩における家中の秩序が、よく積まれた石垣のようにつよく、士風は凛々としていたということがいえる。一得一失といっていい
(中略)
 幕軍は、長州の挙藩体制と庶民軍のつよさと兵器の優秀さの前に、各地で敗退した。幕府という身分制社会が、長州という多分に“国民国家”にちかいあたらしい社会にやぶれたともいえる。
 京都にあってこの様子をみていた会津藩の有志たちが、
 - 会津が、もし他から攻められるようなことがあれば、長州のように挙藩一致ができるかどうか
 と、自問自答しなかったとはおもえない。
 会津と長州との縁は、宿縁である。
(中略)
 ただ新選組の苛烈な白刃によって都の大路小路に屍をさらした長州人や長州系の浪士の数はおびただしく、そのことが、長州人の恨みを買った。恨みは、会津藩にむけられ、やがて会津攻めになって晴らされる。
 - 京でのことは、新選組がやったことだ。
 と、前記の『京都守護職始末』が書かないあたり、会津人というのはどこまでも謹直で、このあたりは牢固たる士風から出ているといっていい。得失でいえば、猥雑なカネ経済的な思考法が、すくなかったことの一得である。

容保記

 松平容保の容貌は、華奢で端正である。
 よく知られている写真に京都守護職時代のものがあり、長烏帽子に陣羽織、采配をもち、床几に腰をおろしている。眉濃く、目もとが涼やかで、二十代後半とは思えないほどに少年のにおいが濃い。
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 美濃高須三万石の松平家にうまれ、十二歳のときに会津松平家に養子に入った。江戸和田倉門の会津藩上屋敷で、養父容敬から薫陶をうけた。会津松平家は、神道である。初代正之の神号を“土津(はにつ)霊神”というが、薫陶というのは正之の思想をうけつぐ教育といっていい。
 養子というより、宗教団体に入ったことに似ている。経典は正之がのこした「家訓」十五カ条である。
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「将軍を一心大切にせよ。列国(一般の藩)とはちがうのである。もし将軍に二心をいだかば、わが子孫ではない。家臣の面々もこれに従ってはいけない」
「法を畏れよ」
 幕法や藩法に忠実であれ、ということである。会津藩が、幕威の衰亡期においても幕命に忠実であったことを思いあわせていい。
(中略)
 さきに、容保が“自分は不才である”としてこの職を再三ことわったことはふれた。が、台命(上意)しきりにくだったという。具体的には、幕府の最高職である“政事総裁”の松平春嶽(慶永。越前福井藩主)が容保を見こんでくどきにくどいた。
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 春嶽は幕末の一時期、尊攘の志士たちから“四賢侯”の一人などといわれ、紛糾した時勢の中であたらしい方向を見出すことにつとめた。主として、懐ろ刀の橋本左内の知恵から出たものだった。
(中略)
 そういう時期に、春嶽が政事総裁になった。かれは公武合体主義だった。ただ政治家としては、左内をうしなって以来、はなはだ精彩を欠いた。
 そういう春嶽が、容保を見こんだ。容保の聡明さとその側近団の上質さと、それに会津藩の武力がほしかったのである。
「とてもその任ではありません」
 とひたすら固辞する容保に対し、春嶽はじつに執拗で、手紙を送ったり、重臣をよびよせて容保に承けさせよ、と説いたり、ついには駕籠でやってきて、病中の容保をたたきおこして説いた。
 が、政治とは、はかない。いざ容保が上洛し、事態がいよいよ紛糾し、倒幕気分のたかまりのもとに春嶽の公武合体論が古ぼけたものになってゆくと、春嶽は容保を火中から救ってやろうとはせず、政局の火炎のなかからすこしずつ身をひいた。
 公武合体主義の薩摩の島津久光や土佐の山内容堂も似たようなもので、一時期、親友の春嶽とともに“京都政界”に鼻をつっこんでいたが、火の手のはげしさに結局は京を去り、この業火のなかでふみとどまったのは、将軍後見役の一橋慶喜と松平容保だけだった。
(中略)
 容保が歴史のなかにいたのは、わずか五年未満だった。歴史とは、京都にいた時期のことである。二十八歳から三十三歳までのあいだのことだった。
 この間、かれは過激派から敵とみなされつつ、ひとり孝明天皇のみから信頼された。孝明天皇は穏和な現状維持派 - つまり佐幕家で - で、倒幕を希(のぞ)んだことは一度もなかった。
 とくに文久年間の京洛騒然としていた時期、長州系の尊攘家たちが、“勅諚”とか”勅旨”とかを持ちまわっていたことはさきにふれた。
 それらは、尊攘の士が、過激派公卿と組んで勅と称して出したもので、筆者は久留米浪士でかつて水天宮の神官だった真木和泉(禁門ノ変で死亡)である場合が多かった。
 ところが制度上、天皇の手で制止することもできなかった。
 孝明天皇は、このことに悩み、武家ではただ一人容保を、わらでもつかむように信じた。

 孝明天皇は、二度、容保に内密の宸翰(しんかん。天皇の書簡)をくだしているのである
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 その最初のものは文久四(一八六四)年甲子二月のもので、「極密々、禁他聞」とあり、じつに長文のものだった。
 配達者は、武士に変装した伝奏の野宮定功で、二月八日夜、黒谷の容保の館にひそかにやってきて、“容保は和歌を好むということが天聴に達したので御製を拝見させる”という口上でもって、ぶあつい宸翰を手わたした。披見して、容保は仰天した。こういう例は、古来あったろうか。

「極密々書状遣(つかはし)候」
 からはじまる宸翰は、時勢についての天皇自身の意見をのべ、容保の考え方、態度を大きく嘉(よみ)している。
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 以下のようなくだり(口語訳)もある。
「なにぶん、汝との間で“密話”することはむずかしい。それに“密々面会”もなしがたいから、やむなくこのように“筆談”する。“筆談”といっても急に互いに意味を会得しがたいだろうから、たびたび“筆談”を往来させたい」
 と、いう。この文意から察するに、天皇は側近の公卿にさえうかつに心をひらけないという緊迫した宮廷の様子がうかがえる。
 くりかえし、書状のなかで、天皇は、
 
 少しも漏洩無之様(ろうえいこれなきよう)…

 といったことばをつかい、守秘を要求というより、懇願しているのである。
 容保はこの守秘については、生涯をかけてまもりぬいた。天皇崩御ののちは、いわばみずから解禁してもよかったろうが、それでも黙していた。また時勢が大旋回して朝敵の名を蒙ったときもこの宸翰をもちだして立場を明らかにしようとはしなかった。まことに“道理”の人というほかない
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 おそるべきことは、藩士にさえ明かさなかったことである。明治二十六年、死の病床にあっても身辺の者にさえ明かしていない。
(中略)
 この崩御のあと、徳川家の運命は急落した。
 翌慶応三年十二月、幼帝によって王政復古が号令された。同時に容保は京都守護職を解かれ、徳川慶喜とともに京を去って、大坂城に入った。一方、京は、薩長がかためた。大坂の幕軍とにらみあいつつ、ついに戊辰第一戦の鳥羽・伏見の戦がおこることになる。

 私は二十年ほど前、このような容保のことを、『王城の護衛者』という題のもとで書いた
 およそ非政治的な青年が、政治の風浪のなかで翻弄され、ついに砕かれてしまう話である。会津若松城の開城降伏後は、城池(じょうち)没収の処置に遭い、住むべき屋敷もとりあげられた。
 明治二年十一月、松平の家名が再興され、家も、旧臣が奔走して内桜田の旧狭山藩邸が用意された。
 容保はここで、壮齢ながら余生を送った。
 明治二十六年十二月に病没するまで、この人は、京都守護職時代のことを語らなかった。ただ当時のうらみをのべた詩がある。慶喜に裏切られたときの詩である。「なんすれぞ大樹(たいじゅ。将軍のこと)、連枝(れんし。一門、自分のこと)をなげうつ」からはじまる詩は絶唱というべきものだが、その詩でさえ、旧臣たちは世間に遠慮をし、門外に出さなかった。
 容保は、篤実な性格のせいか、逸話というものがなかった。
 ただ、肌身に、長さ一尺あまりの細い竹筒をつけていた。ひもをつけて頸(くび)から胸に垂らし、その上から衣服をつけているのである。入浴のときだけは、脱衣場の棚においた。
 家族のたれもがそれを不審におもったが、問うことをはばかるふんいきが、容保にあった。
 その死が、明治二十六年十二月であることはすでにのべた。十月に病み、十二月五日に死んだ。
 死後、竹筒のなかみを一族・旧臣が検(あらた)めてみると、なんと孝明天皇の宸翰二通だった。この二通が、明治後、沈黙の人になった容保のささえだったのである。
 それでもなお、会津人はつつましかった。この二通で、薩長という勝者によって書かれた維新史に大きな修正が入るはずだのに、公表せず、ようやく明治三十年代になって、『京都守護職始末』に掲載するのである。
 いま、東京銀行の金庫のなかにおさめられている。

 紀行にもどる。
 この紀行は、白河からはじめた。
 白河での一夜、たまたま会津にきておられた容保の孫で、直系の家督を継いでおられる松平保定氏が訪ねてきてくださった。
 保定氏は、浮世での仕事をほぼ終えられたお齢である。いまは東京大手町にある明治航空サービス株式会社の相談役をつとめられている。
 この人とは、二十年前、前記『王城の護衛者』のことで電話をくださったとき以来だった。そのときの声が印象的で、明るくて響きに笙(しょう)のような情趣があった。
 白河では、たがいに初の対面になり、一タをともにした。
 保定氏の風貌や人柄は、駆逐艦の艦橋に立つ海軍の古参艦長といった感じで、ただふとした拍子に、容保の面差(おもざし)が重なった。(以下略。以上、引用終了)

今となっては、教科書的かつ古典的内容の会津エッセイと言えるかと思いますが、司馬さん独特の示唆に富んだ会津エッセイという事で、今回、長々と紹介させて頂きました。

私が抱いている幕末会津観も、概ねこのような感覚に近いです。

ド素人の私がグダグダと駄文を開陳するよりも、私が抱いている感覚を、上質な文章で言い表してくれている司馬さんの文章のほうが、読む人にとっては価値があると思いまして、敢えてこういう形を取りました。

前回前々回の記事では、ともすると、私が「会津をバカにしている人間」と勘違いされてしまう恐れも、無いとは言い切れませんので、このシリーズの一番最後にこういった形で弁明をさせて頂きました。

(※上記の「前回、前々回の記事」と書いてあるのは、2年前に書いた「大河ドラマと日本人」という本と星亮一と一坂太郎に対する批判記事の事)

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以上で2年前に書いた記事のアップロードは終了です。


さて、来年2018年は「明治維新150周年」という事で、NHKでは「幕末薩摩大河ドラマ」が放送されます。
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この「明治維新150周年」に関しては、2年前の「あの幕末長州の大河ドラマ」という悪夢を見せられた時に、既にこのブログで指摘していた話ですが、本来であれば「あの幕末長州の大河ドラマ」こそが、来年の「明治維新150周年」にやるべき作品だったのですよね。もしくは江戸時代最後の年(1867年)から150周年という今年に。
(※なぜ数年早めてあの年にアレが放送されたのか?も含めて、その辺の憶測は、私は既に2年前に書いているが、ここでは割愛する)

まだドラマの内容を見てもいないのに番組の中身について何か言うのは「気が早い」と言われてしまうかも知れませんが、原作者、脚本家および公式サイトのプレリリースを見る限り、まあ95%の確率で「あの幕末長州の大河ドラマ」の二の舞になるだろう、と思われますので(夏に「風雲児たち」ドラマの事を書いた時にも指摘済みですが)私はあまり期待していません。

ただ一つだけ言える事は「あの幕末長州の大河ドラマ」の時は「長州ファイブ」の事をほぼスルーしたNHKも、今回の「幕末薩摩の大河ドラマ」に関しては「薩摩スチューデント」を無視する事はないだろう、という事です。

なにしろNHKは、朝ドラで「五代友厚」メジャーにした、と自負しているはずですから、まあ「翔ぶが如く」ではほぼスルーされた「薩摩スチューデント」や五代友厚も、今回の大河では多分出すでしょう。松木弘安(寺島宗則)も一緒に。
(※アーネスト・サトウがドラマに出るのは、まあ主役が西郷なのだから当然ですね。ひょっとするとウィリスも出るんだろうか。薩摩が舞台だし)


(※今回も、いつも文末に貼っているテンプレートは割愛します)

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上念司「明治維新」本は著者も言う通り、タイトル間違って出したみたいね

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前回前々回の記事では、2年前に書いて「お蔵入り」のままにしておいた「幕末・維新」関連の記事を掘り起こして、来年の「幕末薩摩の大河ドラマ」にあわせる形でアップロードするという事で、なんとか「日の目」を見させてやる事ができました。

実はそういった「お蔵入り」のネタはもう一つありまして、これもまあ同じ「幕末・維新」関連の話ではあるのですが(ただしこっちは前回のような「引用文形式」ではなくて、私自身が書いた純粋な「論評」ですが)、実は半年程前に描き上げてはいたものの、どうもその後、公表するタイミングを逃してしまいましてずっと「お蔵入り」のままにしていました。

しかしこれも、来年の「幕末薩摩の大河ドラマ」に合わせる形で今回アップロードしたいと思います。

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経済で読み解く明治維新 上念 司 2016/4/9
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先日(※半年前の話)、近所の図書館にいつものように「幕末・維新」関連の専門書を借りに行った時、たまたまこの上念氏の本が目にとまったので「お試し程度」のつもりでちょっと読んでみました。

上念氏本人も「あとがき」で、いつもの「ボケ」トークのノリで、
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>『この本は確か『経済で読み解く明治維新』というタイトルでしたよね。しかし、残念ながら「明治維新」の話はあまり書いていないんです。スミマセン、またやってしまいました!! 去年出版した『経済で読み解く大東亜戦争』では、「大東亜戦争」そのものについてはおそらく1割も書いていません』(以下略)
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と書いております通り、確かに「明治維新」に関する記述は全体の2割有るか無いかぐらいでしょう。

基本的には、「幕末・維新」というよりは「江戸時代全体」の経済の話が中心になっています。

まあ別に、それはそれとして、良しとしましょう。



ただし、その分量の少ない「幕末・維新の経済」の部分について、その「中身」に多少問題があると思います。

まあ「幕末・維新」にそれほど詳しくない人(=素人)向けであれば、この程度の内容でも良いのかも知れません。と言うか、どう見ても著者自身が「幕末・維新」にそれほど詳しくないのは明らかで、いかにも「付け焼き刃のにわか知識」といった部分が所々見受けられます。

それでも押さえる所はそれなりに押さえてはいますから、それほど著しく内容が矛盾している訳ではないのですが、以下に気になった部分を幾つか列挙しておきます。
(※かなりマニアックな話になります)

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(1) 「兵庫開港問題」の記述が無い
第6章の冒頭で「なぜ薩長は幕府を倒そうとしたのか?」みたいな話が少しだけなされている。と言うか、本来この本のタイトルからすれば「その事こそが核心部分」のはずなのだが、結局著者が思いついた色々な憶測が並べてあるだけで、結論は述べられていない。その事自体も問題ではあるが、一番問題なのは「兵庫開港問題」に全く触れられていない、という点である。これを見落としたのは上念氏の専門が「経済」というよりも「金融」に重きを置いている、という事が原因であろうか。

この本では案外、幕末における薩摩、長州の「財政再建策」の事は詳しく書かれているが、「兵庫開港問題」に触れずして、経済的観点から見た上で「なぜ薩長は幕府を倒そうとしたのか?」を語るのは、やはり問題があるだろう。
(※私は別にそれが「なぜ薩長は幕府を倒そうとしたのか?」の最大の要因だとは言わないが、この本の内容からすれば「兵庫港も横浜港と同様に幕府独占で開港されようとしている」という事を無視してはダメでしょ。生糸や茶の貿易の事はしっかりと取り上げているんだから)

(2) イギリスに関する記述がほとんど無い
その「なぜ薩長は幕府を倒そうとしたのか?」の一番最後の所で、申し訳程度に『ちなみに、イギリスの影を指摘する意見もありますが…』と書かれているだけで、本書ではイギリス関連の話がほとんどされていない。更にあとがきの所で『ペリーさえ来なければ、不平等条約もなく、長州がいくら騒いでも幕府に力でねじ伏せられ』云々と書いているが、ペリー(米国)が来なくても英仏が遅かれ早かれシナ大陸(アヘン戦争及びアロー戦争)経由でやって来るのだから、その前提としている認識自体がおかしい。
(※というか、経済にはほとんど関係はないが、ペリーとほぼ同じ時期にロシア使節も来ている)

当時の世界経済を握っていた大英帝国の影響力を抜きにして、幕末の日本経済を語る事自体、この時代に対する認識が甘すぎる。英国系商社の話を出すかどうかはともかくとして、英国主導の「改税約書」の話が無いのでは、「幕末・維新」の経済本としては甚だ残念な内容と言わざるを得ない。
(※これも、私は別に「英国の陰謀。全部英国がやった論」を容認する人間ではないが、英国の圧力を無視してこの時代を語るのは不可能だと思う。まあ幕末期の米国を現在の米国並みに「超大国だった」と勘違いさせたい、という試みは、上念氏だけに限らずNHKも似たようなもんだけどね。例えば「ペリーの黒船来航」を極端に強調する印象操作も多いし)

(3) 「日米通商条約での、誤った為替レート」の記述部分について
これは「幕末に日本から海外へ金が大量に流出した逸話」として、幕末に興味のある人にとっては少しは知られた話であるが、1859(安政6)年の横浜開港に合わせて「銀貨と比較して割安な金貨(小判)を求めて欧米人が殺到した」という事件で、この上念氏の本ではその事が詳しく解説してある。ただしこの事件を文章で詳しく解説するのはかなり面倒なので、ここでその経緯は解説しません。知りたい人はググるか、この本を読むか、して下さい。

この本の記述内容は概ね正しい。
ただしテクニカルな面では多少問題はある。上念氏はP218で『当時の金と銀の交換レートは1:16でした』と、この事をこの問題の要因とみなしているが(多分これは国際レートの事を言っているのだと思うが)、もちろん「鎖国」下にあった当時の日本が金銀の国際レートをそこまで厳密に取り扱うはずもなく、実際の所は、純粋に「為替レートの差」が要因となった話である。まあこれはかなり細かい話であり、それほど重要な話でもないけど。

そしてその「為替レートの差」の問題について、上念氏はP229で、
『原因を作った張本人であるハリスは、ぬけぬけと金貨の品位を3分の1にして国際標準に合わせるよう幕府に提案してきました。もちろん、このとき幕府には選択肢はありませんでした』
と述べているが、この『選択肢はありませんでした』という意味が、「ハリスに強要されたから」という意味なのか?それとも物理的な意味として「他に選択肢はなかった」と言いたいのか?

どうもこの前後の文脈からすると、上念氏は前者の事を指しているように思われるのだが、その直前に書いてある貿易決済用の安政二朱銀の件は別として、「万延小判の発行」以外、実際他に何か方法があったのだろうか?確かにその導入に幾分時間がかかったせいで、ある程度の金貨の流出があったのは事実だし、それは幕府の手落ちと言えるだろう。私自身が「歴史のIF」に否定的な立場の人間である事は過去度々強調してきたが、なるほど「最初から全て完璧に出来ていれば」それはそのほうが良かったに決まっている。

その後、上念氏も書いているように、この事件が及ぼした一番の問題点「国内の急激な金銀為替の変動」について、この事が幕末の世相に大きな影響を与えたというのは、上念氏が言うように私も事実だと思う。その上で上念氏はこれを「幕府の大きな失策」として非難している(※これは上念氏だけに限らず、他の多くの人々も同様に非難している話ではある)。しかしながら、それでは当時の現実的な選択肢として『「万延小判の発行」以外に、他に選択肢はあったのだろうか?』と私は問いたい。

(4) 一番最後の結論の部分
終盤のP271に『ここまでくると、明治維新は何のためにやったのかわからなくなります。そもそも、経済政策という点で見る限り、明治維新以降実施された政策は、江戸幕府でもやろうと思えばやれた政策ばかりです。(中略)しかし、「できたかもしれない」ことと実際に「やる」ことの間には越えられない壁があります』とある。

これはまあ、良しとしよう。
そしてその後に荻原重秀、徳川吉宗、大岡忠相、田沼意次等の江戸中期の人物名を出して『あの時ああしていれば』みたいな話をしている。

更にあとがきでは、一応『もちろん、これは後知恵に過ぎませんし、歴史に「もし」は禁物です』と断りを入れつつも、ここでもやはり『あの時(江戸中期頃に)ああしていれば』みたいな話を延々としている。

もちろん私自身、先述したように、このブログでは口が酸っぱくなる程、
『歴史にIFは無い。特に自説に都合良くする為のIFは最悪である』
と述べているように、それらのIFを容認する気は毛頭ない。

第一「歴史のIF」を語るにしても、上念氏が設定するIFはあまりにも説得力の無い「歴史のIF」、というか「幕末のIF」である。

上念氏が挙げているそれら幕府首脳の人間が幕政をドラスティックに変える、などというのは「外圧による危機感」が無い限り絶対にあり得なかった話である。そして日本に「外圧による危機感」が大きく覆いかぶさってくるのは産業革命後、蒸気船が普及してからの話であり、具体的に言えば1840年の「アヘン戦争」以降の話である。
(※細かい事を言えば、それ以前からロシアの脅威も多少はあったが)

しかも「アヘン戦争」以降でさえ危機感を持った政治家は一部に過ぎなかった訳で、いわんやそれ以前の政治家が「外圧による危機感」を持つなどというのは「歴史のIF」としても荒唐無稽な話と言える。

そして幕末においては、1860(安政7)年に井伊直弼が死んで以降、幕府には「決断ができる政治家」が一人もいなくなったのだから、いかに幕府官僚が有能といえども所詮は官僚で、この連中が今一度全国を統御できるような力を持つなどという事はあり得ず、経済政策のごときは官僚としてそれなりに正しく打ち出せたとしても、所詮革命は「武力」によってなされる以外になく、その日本自身に向けられている「外圧」ももちろん「武力」であり、それが「富の収奪」の源泉でもあった。そういう時代である。

その「武力」によって革命を成し遂げた武士たちが、明治10年までに中央集権(廃藩置県)体制を作り上げた事までは良かったが、勢い余って自分達の武士の身分まで消滅させてしまったのだから、皮肉な話ではあるけれど。

その一方で、長州征伐で長州一藩さえも処分できなかった、「決断ができる政治家」が一人もいなかった幕府が、「中央集権化、武士の消滅」などという「痛みを伴う決断ができた」とはとても思えない、というのが私の持論である。
(※まあ、この結局「幕府じゃ無理」という結論自体は、私と上念氏にあまり差異はないようだが)
------------------------------------------------------------------

以上、とにかく「幕末・維新」本としては「やや偏向した本」という事は間違いなく言えるでしょう。「江戸時代全体を対象とした経済本」という事であれば話は別ですけど。

でもまあ「幕末・維新」の専門家じゃない人(上念氏)に対しては、ちょっと厳しすぎる意見だったかな。

どうも、言わずにはいられない性分なもんで。ごめんなさいね。
------------------------------------------------------------------
以上で半年前に書いた記事のアップロードは終了です。



私自身は経済の専門家という訳でもないし、幕末の「経済」の部分をそれ程詳しく調べている訳ではありません。それでも石井寛治先生の「近代日本とイギリス資本 ジャーディン=マセソン商会を中心に」ぐらいは読んでます。
(※上念氏も石井寛治先生の別の本を参考文献の一つに挙げてあった)

伝え聞く所では「あの倉山満」が“西郷隆盛”の本を最近出したらしい。
当然、これも来年の大河に便乗して出したものなのでしょう。
私は読みませんけど。

そもそも私は、倉山満の歴史関係の本は一冊も読んだ事がありません

私が読みたい幕末・維新の「専門書」は山ほどあります。
そしてまだ読み切っていない本も手元にたくさん残っています。

素人向けの倉山の歴史本などを読んでいる暇は、私にはありませんので。

「NHK解体」に関するまとめ(十例)

(1) 日本の公共放送であるにもかかわらず、「自立国家・日本」が主張すべき意見を封殺し、しかも運営資金のほとんどを日本人が負担しているのに、中国・朝鮮、又は旧GHQ(特に米国の立場を優先するような番組しか制作しない。 リンク1リンク2

(2) 受信料制度に様々な不備があり、甚だ公平性を欠いている。また「国営なのか?非国営なのか?」という点も不明瞭である。「国営放送局の新規創設」「民営化」「スクランブル化及びペイパービュー」などが検討されて然るべきである。 リンク1リンク2

(3) 局の政治的及び思想的スタンスが左側の言論に偏っている。「いわゆる保守系」の言論人はほとんどNHKの番組から排除されている。 リンク1リンク2

(4) 昔はともかく、現在では朝日新聞よりもNHKのほうが害が大きい。朝日は儲からなくなれば方針転換を余儀なくされ、また新聞業界自体が斜陽産業である。一方NHKには潤沢な資金(税金)があり、更には「映像や音声で直接感覚に訴える」という高いプロパガンダ能力もある。 リンク1リンク2

(5) 「弱者・被害者」報道は公共放送として、もちろんあって然るべきだが<言葉狩り><論点ずらし><自己保身><イデオロギー闘争>に利用する為にNHKの場合、それが至上命令となっておりやり過ぎである。 リンク1リンク2

(6) NHKの原発報道は「反原発」一色で、「原発再稼働」側の意見は皆無に等しい。現在多くの国民が患っている「原発アレルギー」は、NHKが3.11以降に垂れ流してきた“音声”と“映像”によって作り上げられた、と言っても過言ではない。 リンク1リンク2リンク3拙ブログの「反原発」関連カテゴリへのリンク

(7) 外部の識者による「討論番組」が異常に少ない。「国民にオープンな討論番組を見せる」という姿勢が甚だ欠如しており公共放送として失格であり、また民主主義(選挙制度)の観点から見ても失格である。 リンク1リンク2

(8) 「表現の自由」を盾に一切の干渉を排除し、リベラル知識人特有の「上から目線(=「国民は愚民」という意識)」も強烈で、公共放送の在り方や番組の内容について「国民にアンケートを採る」という事を一切しようともせず、非常に独善的であるリンク1リンク2

(9) 「JAPANデビュー反日台湾番組」や「佐村河内のヤラセ番組」等、非常に問題のある番組を数多く放送してきたが、責任を全く感じていない。 リンク1リンク2

(10) 一般のマスメディアで取り上げられる事はほとんどないが、NHK職員の不祥事は異常に多い。また公共の受信料で成り立つ放送局としては職員の待遇がお手盛り過ぎるという問題もある。 リンク1リンク2


その他にも、NHKが制作してきた数多くの「媚中番組」「韓国・朝鮮人擁護番組(ヘイト関連含む)」「民進党擁護番組」等の問題、また近年急速に内容が劣化している「NHK大河ドラマ」の問題などもありますが、それらは上記から割愛しました。

【結論】NHKを解体して、国民にとって必要最低限の事を放送する国営放送局を立ち上げ、残りは民営化すべし。(終)

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坂口尚「石の花」「あっかんべェ一休」 前編

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唐突ですが、久しぶりに「マンガ関連」の事を書きます。
実に約3年ぶりという事になりますか。

3年前までこのブログでは年2回ぐらいのペースで個人的な趣味の話である「マンガ関連」の話を書いていました。

(※過去にこのカテゴリで取り上げたマンガ作品は以下の通りです)
安彦 良和『王道の狗』(2012/01/22)
みなもと 太郎『風雲児たち』(2012/04/29)
山岸 凉子『舞姫 テレプシコーラ』(2012/09/02)
関川 夏央・谷口 ジロー『「坊ちゃん」の時代』(2011/12/26)
星野 之宣『ヤマタイカ』、『宗像教授シリーズ』(2012/11/04)
木村 直巳『天涯の武士』(2013/01/14)
森田 信吾『明楽と孫蔵』、『栄光なき天才たち』(2013/04/21)
村上もとか『六三四の剣』、『龍-RON-』、『JIN-仁-』(2014/04/05)
原作:真刈信二 作画:赤名修『勇午』(2014/10/14)
原作:工藤かずや 作画:浦沢直樹『パイナップルARMY』(2014/10/18)

しかしその後はなんとなく書きそびれてしまって、そのまま今日(こんにち)に至ってしまいました。
(※なにしろ2年前の日韓慰安婦合意の時に、一回「ブログ閉鎖」を宣言したぐらいだからねえ)

マンガオタクである私の属性において、その中でも特に「歴史マンガ」に関する私のコダワリは並大抵のモノではありません。その事は、これまで書いてきた上記の一覧表からもある程度お察し頂けると思います。

ひょっとすると「マンガ関連」の話を書くのは今回で最後になるかも知れませんので、以前から『これだけは絶対に外せない!』と思い続けてきた、この坂口尚先生の2作品について、今回は書いておきたいと思います。

『石の花』wikiリンク
『あっかんべェ一休』wikiリンク
作者:坂口尚(wikiリンク)(公式サイト※没後20年に設立されたもの)

以下、amazonへのリンク
171201_g5d3o6s8_0001.jpg石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

171201_g5d3o6s8_0002.jpgあっかんべェ一休(上) (講談社漫画文庫)
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『風雲児たち』『ヤマタイカ』の時にも書きましたように、私はその当時(80年代中頃)『コミックトム』という雑誌自体を読んだ事がありませんでしたので、この『石の花』という作品も、その当時ライブで読んでいた訳ではありません。

今から約20年前(90年代中頃)、私が『月刊アフタヌーン』を毎月読んでいた事は『勇午』の時に書きました。ちょうどその頃、同じ『月刊アフタヌーン』で連載していたのが坂口尚先生の『あっかんべェ一休』です。

『あっかんべェ一休』は作品自体も非常に印象的な作品ではあるのですが、それより何より、もっと印象的だったのは、アフタヌーン連載の最終回で主人公の一休が死んで「あっ、かん、べェ~!」と去って行く、まさにその連載号で(私の記憶では。ひょっとしてもう少し後だったかも知れないが)「作者・坂口尚の急死」がアフタヌーンの誌面で発表されて、「そのあまりのリンクぶりに」非常にビックリした、という強い印象が残っています。

この『あっかんべェ一休』という作品が非常に私の印象に残りましたので、それをきっかけにしてその後しばらくして、同じ作者の作品である『石の花』も後追いで読む事になった、という訳です。



そんな訳で、今回(前編)は先に描かれた『石の花』について書きたいと思います。

物語の内容は、ザクッと言ってしまえば「第二次大戦下における旧ユーゴスラビアの話」です。

新潮社から出ている「新版」(全5巻)の2巻冒頭にある「これまでのストーリー」の部分を引用して、以下に作品の概要を紹介します。

(以下、引用)
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 1941年、平和なユーゴスラビアを、突如、ドイツ軍が襲った。ダーナス村に住む少年クリロも、級友たちと、ポストイナ鍾乳洞の美しい“石の花”を見学した帰路、ドイツ機の奇襲を受ける。必死で逃げ出したクリロだったが、同級生は全員死亡、村は焼き払われ、親しい少女フィーはドイツ軍に捕まり、収容所へ送られる--。
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 当時のユーゴは、日・独・伊の三国同盟に加入した直後で、国内には不満が続出、首都ベオグラードではクーデターまで発生していた。それに対する報復として、ドイツ軍はユーゴ分割占領という強硬策に出たのだった。ユーゴが多民族国家である点を突いた作戦だった…。

 クリロは、山岳難民に助けられ、しばしの安堵を得るが、ユーゴ軍が呆気なく降伏したと知り、兄イヴァンを探しにザグレブ市へ行く。
 一方、収容所へ送られたフィーは、連日の強制労働に耐えながら、“ガス室送り”の恐怖に震えていた。ところが、ある日、急に町中の豪邸へ連れて行かれ、豪華な衣服や食事を与えられる。屋敷の主は、ナチスのエリート軍人マイスナー大佐。彼は、フィーの容姿に、亡き妹の面影を見出し、身近に置いておこうとする。「平等こそ頽廃をもたらす。生存とは、闘争そのものだ。凡俗はガス室送りだ!」--マイスナー大佐の異常なまでの冷徹さに、フィーは「収容所へ戻して」と叫ぶ。
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 クリロは、ザグレブで知り合った風来坊ミントの協力を得て、兄イヴァンの恋人ミルカに会った。彼女によれば、イヴァンは政治研究グループに属しており、まったくの行方不明だという。「とにかくジッとしてられないんだ」というクリロは、ミルカの紹介で、イヴァンの知人ブランコが率いる山岳ゲリラに加わる。「おれも仲間に入れて下さい。銃の撃ち方、教えて下さい!!」
 ドイツは、以前から分離意識の強かったクロアチア地方を独立国として承認し、他の地方を周辺諸国に分割占領させることで、ユーゴ国内の民族同士の対立を、さらに煽っていた。地下に潜行したユーゴ共産党は「今回の戦争は、帝国主義同士のケンカだ」と静観の構えである。
 問題は、イギリスの態度だった。イギリスは、ユーゴ亡命政府を受け入れていたが、はたして、どのような形でユーゴを支援してくるか…。
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 ある日、クリロは、町で、ドイツ軍将校の車に乗ったフィーの姿を見かけた。車は、マイスナー大佐の屋敷へ入って行く。仲間が止めるのも聞かず、クリロは、単身、マイスナー大佐の屋敷へ忍び込む…。
 邸内のベランダに佇む少女の姿--それは、まさしくフィーだった!だが、再会の喜びも束の間、クリロは、すぐに見つかり逮捕される。そして、さらに驚くべき再会が--屋敷には兄イヴァンがいたのだ!
「兄さん、どうして、こんな所に!?」
 何も語らないイヴァンに代わり、マイスナー大佐が答えた。
「イヴァンと私は七歳までドイツで共に学び遊んだ仲だ。彼の体にはドイツの血が流れている」
 イヴァンは、クリロとは実の兄弟ではなかった。ドイツの血を引いた従兄で、両親を早くに亡くし、クリロの家で、兄弟として育てられたのだった。今は独軍情報局で、スパイとして働いているという。あまりの衝撃に、クリロは言葉もない。
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 そして、クリロの処刑。イヴァンは、ドイツ人としての証(あかし)を立てるために、自ら銃を持って、クリロの前に立った。一発の銃声!裏庭の川へ落ちていくクリロ…。イヴァンは、わざと狙いを外して撃ったつもりだったが--。
 そのころ、町中を噂が駆け巡っていた。「共産党が、ユーゴ人民解放パルチザン部隊を結成だとよ」「総司令官はチトーとかいう男らしいな」…。(終)

いきなり余談から入るのも何ですが、冒頭に挙げた「マンガ関連」の過去記事一覧にもあるように、私がよくよく「お気に入りの作品」として読んでいたマンガ作品というのは、後から思えば『コミックトム』という、私が全く読んでいなかったコミック雑誌で連載されていたものばかりなのだなあ~、とつくづく気づかされます。
(※横山光輝の『三国志』や手塚治虫の『ブッダ』も子供の頃に単行本で読んでたけど「連載している雑誌本体」の事には、全く頭が回らなかった)

そりゃまあ、この『石の花』が連載されていた当時は、私はまだ中高生ぐらいの年頃ですから、その頃は普通にジャンプやサンデーぐらいしか読んでいませんでしたので、これらの『コミックトム』系の作品の事を知って後追いで読むようになったのは、大体二十代になってからの事でした。

なんでこんな話から始めているのか?と言うと、この『石の花』という作品は、その読者の対象年齢が「どういう年齢層を狙っているのか?」というのが、よく分からないのです。

いや、実は対象としている読者層はハッキリとしている。
それはこの作品のテーマとも関連しており、作者の坂口氏がこの作品に込めている「現実を現実として、それを抵抗なく受け入れてしまうような大人であって良いのか!?」という「彼の想い」からすれば、対象としている読者層は「青春時代への想いが強い人々」である事は間違いありません。
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しかしそれを承知の上で敢えて疑問を呈したいのは、この作品の主人公は「少年クリロ」であり、「少女フィー」なのです。という事は、この物語は少年少女に向けて語られている「少年マンガ」なのか?というと、そうではなくて、物語の本線は「第二次大戦下のユーゴスラビアの話」という、少年少女にはかなり難解な時代背景の設定になっています。

そして話の内容も(戦争の話なので)メチャメチャ重い。

まあ確かに。
逆に言えば、これほど重い内容の話であるからこそ、主人公は「少年・少女」でなければならなかったのかも知れません。これがもし、主人公が「青年」であったとしたら(更に様々な葛藤の描写を描かざるを得ず)それこそ、もう救いようがないぐらい惨憺たる話になっていたかも知れませんから。
(※いや、もちろん。この作品はこれでも十分「惨憺たる内容の話」ではありますけど)




次に「歴史物語」という事について。

いつも述べておりますように、私は確かに「歴史オタク」ではありますけれども、私の専門は「幕末・明治」です。

ですから旧ユーゴスラビアの歴史については、せいぜいNHKでちょうどその頃(私がこの作品を初めて読んだ90年代中頃)放送されていた「映像の世紀:第10集・民族の悲劇果てしなく」で見た程度の知識しかありませんでした。その後、ネット環境が整備されてからはネットでいろいろと勉強はしましたけれども。

それはさておき。
私は村上もとか先生の『JIN-仁-』の論評を書いた時に、手塚治虫先生の『陽だまりの樹』について以下のように書きました。
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(以下、一部抜粋して引用)
これは手塚作品をいくつか読んだ事のある人にとっては説明するまでもない話でしょうけど、手塚先生は基本的に「ヒューマニズム」第一主義なのであって、「歴史」という観念的なモノはあまり好きではないんですよね。
しかも、ハッキリ言ってしまえば、良くも悪くも「左がかった思想」にかなり近い考え方の人ですし、歴史上の人物に対する見方というのは「かなり冷めた見方」という感じがこの作品からは見て取れます。
(以下略)
------------------------------------------------------------------
イヤハヤしかし、「マンガの神様」に対してなんちゅう無礼な事を書いとるんだ!当時の私はw

これもネットが普及してから後追いで知った知識ですが、坂口先生は手塚治虫先生の弟子だったようです。(※参考用wiki

なるほど確かに、坂口先生の作画には手塚先生の影響が多少見受けられます。もっとも、坂口先生の作画は手塚先生の絵をかなりシャープにしたように感じられますが、それでも写実的(劇画風)一辺倒という訳でもなく、随所に幻想的でアーティスティックなカットが取り入れられており、特にこの『石の花』という作品では坂口先生の豊かな感受性に裏打ちされた表現力が、いかんなく発揮されていると思います。
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ちなみに私は坂口先生の『VERSION』という作品は、ちゃんと読んではいません。パラパラと中身を少し覗いた事はありますけど。なにしろ私、SF作品は苦手なものでw
他に坂口先生の作品としては初期の『ウルフガイ』および様々な初期短編集などにも目を通した事はありますが、その頃の作画はこの『石の花』のレベルにはまだ遠く及んでいません。これは私の推測ですが、その間、手塚プロでのアニメ制作の現場で表現技術が鍛えられたのではないでしょうか。


そして坂口先生の描く、この『石の花』という歴史物語は、やはり手塚先生の「ヒューマニズム重視」の路線を踏襲した歴史物語である、といって差し支えないと思います。

ハッキリ言ってしまえば、描きたいのは「歴史」ではなくて「人間」である、という事ですね。しかしこれは結局の所、個々人の好みの問題ですから、どちらが良いとか悪いとかは言えません。

ただし、その「人間」というのは、あくまでも「創作上のオリジナルキャラクター」の事であって「実在した歴史上の人物」の事を指している訳ではない、という事は一応指摘しておきたいと思います。

おそらく作者が描きたかったのは、戦争という極限の状況下における「生身の人間」であり、「人間の本性」「人間の弱さ」そういったものを描きたかったのだと思います。

以下、最終巻の巻末に書かれている坂口先生の「あとがき」を紹介します。

(以下、抜粋して引用)
あとがき
“戦争”を題材にしたものをと、依頼されたのは1982年の夏近くの頃だった。私は戦後生まれである。直接、戦争のことは知らない。少々ためらった。しかし、私のやっている創作とは、自分で体験したことのない事件や状況をも設定し、人物を登場させて一つのドラマにしていく作業である。宇宙空間へ行ったこともないのに、宇宙船内の物語を作ったりもする。人殺しも描く、女も老人も描く。私は引き受けた。
 よく、「なぜ、ユーゴを選んだのか?」「なぜ、アメリカやイギリスでないのか?」と訊かれる。戦争映画というとアメリカ、イギリスの活躍が出てくるので食傷気味であったのも事実であるが、民衆が抵抗に立ち上がったパルチザンに興味をひかれたこと、そしてユーゴは、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字が混在する複雑な環境であることの二点が、私の積極的な創作動機となった。特に“複雑な環境”は、この世界の縮小版ともいえる。
 人は成長と共に庭先や路地裏や砂場から、やがて社会を視野に入れる。世界が広がっていく。しかし、私はどうもいぶかしく思っていた。本当に広がるのだろうか?
 子供のころ超人(スーパーマン)に憧れる気持ちは、昔、子供だった私にもよく理解できる。シンデレラ姫を夢見る気持ちもわかる気がする。だが、人は年齢を重ねるにしたがい、超人もシンデレラ姫も遠い存在となり、「オモチャ箱へオモチャを整理しなさい」と、言われ続けているうちにやがて、そういった者達もオモチャ箱の中にしまいこんでしまう気がする。あの勇気や美や愛に満ちた空間の光を浴びて身も心も躍動していたとき、叱られたり、喧嘩したり、くさったり、泣いたり、淋しかったりしても、超人かシンデレラ姫の分身のような気になったりして立ち直れたものではないだろうか。エネルギーの根源(モト)になるような何かがあった。そういうものまでも…。
「整理」をすることによって“けじめ”“仕切り”“区別”をつけるわけだ。オモチャ箱の中と外の世界を。それは学業生活、やがて社会人として集団の中で暮らしていくのには当然なのかも知れない。それでも、大人になってからあの“光”を求めてオモチャ箱の中をのぞきたくなれば、のぞくことは出来る。世の中にはそのための「もどき」がたくさんある。それは多分に現実生活を一時忘れさせるために、疲れを癒すために。そして、もし幸運にも「もどき」でないものに出会えたとしても、尋常のことでは、かつて“光”を浴びた時のようには、事実、身も心も躍動はしないと思う。なぜなら、あまりにも外の世界の塵あくたが自身に降り積っているからだ。
 それにしても、あの“エネルギーの根源”は何だったのだろう。
 あの箱の中には創造的かつ積極的な生き方の秘密が入っている気がする。私は、それを見つけたいがためにもう一度あの箱をのぞきこんで、この作品を描き始めたのだと思う。なぜなら、オモチャ箱の外の世界でもいきいきと生きたいために…。
 私には、オモチャ箱の中より外の世界の方が小さく見えてしょうがないのである。
(※以下、新装版への追加・修正の説明および編集者や諸々の協力者への謝辞は省略)
 そして、私事ですが、その精神と生き方において尊敬する『江古田の仙人』に、この世でめぐり会えたことは深い喜びです。
一九八八年 秋
坂口 尚

(※この最後に書かれている『江古田の仙人』というのは多分、その翌年に亡くなる事になる手塚治虫先生の事なんだろう、と思います)


もしもこれから初めてこの作品を読むという人がいらっしゃって、その人が第二次大戦の歴史やミリタリーに多少なりともコダワりを持っているとすれば、そういった部分には、あまり期待をなさらないほうが良いと思います。

また、原作者の付いていない歴史作品では時々見受けられるパターンではありますけど(安彦先生とか)、終盤「広げに広げすぎた風呂敷が、ちゃんと包まれないままに終わる」といった残念な部分も多少見受けられますが、そこはまあ、あまり目くじらを立てずに温かい目で見てあげてください。


最後に、ググッて見つけた『石の花』の書評を載せているブログなどを参考用リンクとして貼っておきます。
http://www.geocities.jp/msakurakoji/901Comics/34.htm
http://gakushumanga.jp/manga/%E7%9F%B3%E3%81%AE%E8%8A%B1/
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20110305/p1


以上で『石の花』についての論評は終了です。
次回(後編)の『あっかんべェ一休』に続きます。

「NHK解体」に関するまとめ(十例)

(1) 日本の公共放送であるにもかかわらず、「自立国家・日本」が主張すべき意見を封殺し、しかも運営資金のほとんどを日本人が負担しているのに、中国・朝鮮、又は旧GHQ(特に米国の立場を優先するような番組しか制作しない。 リンク1リンク2

(2) 受信料制度に様々な不備があり、甚だ公平性を欠いている。また「国営なのか?非国営なのか?」という点も不明瞭である。「国営放送局の新規創設」「民営化」「スクランブル化及びペイパービュー」などが検討されて然るべきである。 リンク1リンク2

(3) 局の政治的及び思想的スタンスが左側の言論に偏っている。「いわゆる保守系」の言論人はほとんどNHKの番組から排除されている。 リンク1リンク2

(4) 昔はともかく、現在では朝日新聞よりもNHKのほうが害が大きい。朝日は儲からなくなれば方針転換を余儀なくされ、また新聞業界自体が斜陽産業である。一方NHKには潤沢な資金(税金)があり、更には「映像や音声で直接感覚に訴える」という高いプロパガンダ能力もある。 リンク1リンク2

(5) 「弱者・被害者」報道は公共放送として、もちろんあって然るべきだが<言葉狩り><論点ずらし><自己保身><イデオロギー闘争>に利用する為にNHKの場合、それが至上命令となっておりやり過ぎである。 リンク1リンク2

(6) NHKの原発報道は「反原発」一色で、「原発再稼働」側の意見は皆無に等しい。現在多くの国民が患っている「原発アレルギー」は、NHKが3.11以降に垂れ流してきた“音声”と“映像”によって作り上げられた、と言っても過言ではない。 リンク1リンク2リンク3拙ブログの「反原発」関連カテゴリへのリンク

(7) 外部の識者による「討論番組」が異常に少ない。「国民にオープンな討論番組を見せる」という姿勢が甚だ欠如しており公共放送として失格であり、また民主主義(選挙制度)の観点から見ても失格である。 リンク1リンク2

(8) 「表現の自由」を盾に一切の干渉を排除し、リベラル知識人特有の「上から目線(=「国民は愚民」という意識)」も強烈で、公共放送の在り方や番組の内容について「国民にアンケートを採る」という事を一切しようともせず、非常に独善的であるリンク1リンク2

(9) 「JAPANデビュー反日台湾番組」や「佐村河内のヤラセ番組」等、非常に問題のある番組を数多く放送してきたが、責任を全く感じていない。 リンク1リンク2

(10) 一般のマスメディアで取り上げられる事はほとんどないが、NHK職員の不祥事は異常に多い。また公共の受信料で成り立つ放送局としては職員の待遇がお手盛り過ぎるという問題もある。 リンク1リンク2


その他にも、NHKが制作してきた数多くの「媚中番組」「韓国・朝鮮人擁護番組(ヘイト関連含む)」「民進党擁護番組」等の問題、また近年急速に内容が劣化している「NHK大河ドラマ」の問題などもありますが、それらは上記から割愛しました。

【結論】NHKを解体して、国民にとって必要最低限の事を放送する国営放送局を立ち上げ、残りは民営化すべし。(終)

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坂口尚「石の花」「あっかんべェ一休」 後編

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前回(前編)の続きになります。

前回は坂口尚先生の『石の花』について書きましたが、今回は坂口先生の
『あっかんべェ一休』について書きます。

以下、前回と同様に関連リンクを貼っておきます。
------------------------------------------------------------------
『石の花』wikiリンク
『あっかんべェ一休』wikiリンク
作者:坂口尚(wikiリンク)(公式サイト※没後20年に設立されたもの)

以下、amazonへのリンク
171201_g5d3o6s8_0001.jpg石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

171201_g5d3o6s8_0002.jpgあっかんべェ一休(上) (講談社漫画文庫)
------------------------------------------------------------------

『私は歴史オタクですが専門は幕末・明治です』
などという事は、これまで繰り返し書いてきました。

それでも「歴史オタク」には違いないのだから、「一休宗純」という歴史上の人物を扱っている本作に対しても、私(ブログ主)は大いに興味を持っているに違いない、と皆さん思われるかも知れません。

まあ、それは確かにそうなのですが・・・。
それにしても「一休」は、あまりにも難しい題材だと思います。

これは私だけに限らないと思いますが、室町時代、特にこの一休の生きた15世紀というのは、少なくとも応仁の乱が勃発する1467年頃までは歴史的な大事件もあまりなく「大河ドラマには一番なりにくい時代」であり、我々にとって「一番馴染みの薄い時代」と言っても過言ではないでしょう。

ちなみに一休の生没年は1394~1481年なので、その晩年には応仁の乱に遭遇しており、一応この作品でも応仁の乱については多少触れられています。
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また、応仁の乱と一休と言えば、一応NHK大河ドラマ『花の乱』で94年に(ちょうどこの『あっかんべェ一休』がアフタヌーンで連載されていた頃)一度放送はされています。
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しかしこの作品は応仁の乱(というか日野富子)がメインであって、一休が主に活動していた15世紀前半は物語の対象にほとんどなっていません
(※ちなみに私は最初の数話しか見ていないのでその辺、断言はできませんけど。それにしても『花の乱』は「視聴率的な部分」も含めて、NHK的には結構「黒歴史」みたいな扱いになってるよなあ。あと、ここ1年程NHKが応仁の乱と呉座勇一氏をやたらプッシュしている先週のヒストリアもそうだった)のは「数年後に大河でやりたい」という思惑でもあるのだろうか?まあ550年の節目と言われれば、確かにそうなのだが…)




前回『石の花』の時には、その「歴史物語の性質」について、私なりの見解を述べました。
端的に言えば『石の花』は「歴史物語」として捉えるよりも、「歴史ヒューマンドラマ」として読むべき作品である、と。

その一方で、この『あっかんべェ一休』という作品は「歴史物語」として、どのように描かれているのでしょうか?

実際の所、この『あっかんべェ一休』では、少なくとも『石の花』との比較で言えば、歴史の記述や当時の風俗(時代考証)の描写にかなりの力を割いて、物語を描いています。

特に土一揆や庶民の悲惨な生活ぶりなどは「これでもか!」というぐらい(上記の応仁の乱の描写からも分かるように)たたみ掛けるような勢いで描いています。また歴代の足利将軍の行状も(ほぼ全員悲惨な形で最期を迎える様子を)かなりの紙面を割いて描いています。

しかしそうは言っても、当然の事ながらこの作品は「一休という人物の一代記」というスタイルを取っていますので、やはり作者が描きたいのは「一休という人間そのもの」であり、歴史の描写は、『石の花』と比べれば非常に力を入れて描いているにもかかわらず、それほど重要視されているようには感じられません。
(※先述したように、そもそも一般的に知られている歴史的大事件があまり多くない15世紀の室町時代を描いている、という理由も大いにある)

そういう意味では、やはりこの作品も『石の花』と同様に、「歴史物語」として捉えるよりも、「歴史ヒューマンドラマ」として読むべき作品である、とは言えるでしょう。と言うよりも、この作品は「一休の人生哲学を語るドラマ作品」と言えるのかも知れません。

一つだけ注意が必要なのは前回も書きましたように、「人間」を描くと言っても『石の花』は「創作上のオリジナルキャラクター」の話であるけれど、この『あっかんべェ一休』は「実在した歴史上の人物=一休宗純」の話であるので、その捉え方は一筋縄ではいきません。

この『あっかんべェ一休』という作品は、あくまで坂口尚先生の解釈による「一休」であり、他の作家が別の解釈で「一休」を描けば、また違った形の「一休の人間像」が作られる、そういった可能性も大いにあるのです。「創作上のオリジナルキャラクター」=『石の花』の場合とは違って。


とりあえず、一休や室町時代の事を考えるにあたって、ここで司馬遼太郎『街道をゆく』の「大徳寺散歩」から、一休にまつわる司馬さんのエッセイを引用してみたいと思います。

(以下、NHK『新・街道をゆく』「大徳寺散歩」より抜粋して引用)
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『一休はその真骨頂よりも、ユーモラスな行状によって人に親しまれている。今日なおアニメになったりして、大袈裟でなく、世界中の子供から親しまれているのである。ところが、その言動や詩集「狂雲集」などから「一休とは何者か?」という事を考えていくと、一筋や二筋の縄ではいきそうにない』
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『一休が生きた室町時代そのものが異常で、私どもの想像力ですぐさま手触り出来るような時代ではない。「室町」と言えば、現在の日本文化の源流がことごとくこの時代から起こっているのである。その点では華麗この上もなく、思想においては、例えば禅がある。更に芸術においては、能、狂言、また茶や新様式の絵画などが群がり起こった。「世は幻である」と思いつつも、人々は生きる楽しさを知ったのである。一休の生涯も、そういう世間の華麗さが背景になっている』
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(中略)
『「諸悪莫作 衆善奉行」言っている事はそれだけである。「悪い事をするな。良い事をせよ」というだけの意味である。一休という人は墨跡の良い人だが、それにしてもこの「諸悪莫作」は抜きん出ている。隅々まで力が溢れているだけでなく、えもいえず優美なのである。更に言えば、信じ難い程に清らかな魂魄が高々と天にかかっている。一休は理解するよりも、むしろ感ずべき対象であるらしい。高度に感ずれば、驚くばかりに澄明(ちょうめい)である』
(以下略)

坂口先生がどのような経緯で一休に興味を持ったのか?私はよく知りません。何と言っても、この作品を描き上げた直後に急逝されてしまったのだから、単行本には「あとがき」も書かれていません。(※少なくとも私の手元にある文庫本では。元の単行本には何か書いてあったのだろうか?)

前回取り上げた『石の花』は、新潮社から出されている「新版」を参考にしていたのですが、その第4巻の巻末あたりに作者近影の写真が載っていて、そこには「次回作『狂雲子・一休』(仮題)の資料を整理中の著者」と書かれており、この第4巻が出版されたのは1988年の事ですから、『月刊アフタヌーン』で1993年から連載開始になる5年近く前から、既に坂口先生は一休に強く関心を抱いていた事が分かります。


とにかく、描く時代の選択として、この「室町時代」を選択し、描く主人公として「一休」を選択するというのは、相当「危険な賭け」だったろうと思います。まあ、それを言えば「第二次大戦下のユーゴスラビア」を選択した『石の花』も、元より相当「危険な賭け」だった訳で、そういう点ではこの2作品はある意味共通している、と言えるでしょう。

一言「天邪鬼」と言ってしまえばそれまでに過ぎないのかも知れませんが、『石の花』に込められた作品メッセージにも見られるように、
「現実または世間の常識に抵抗する自由な人間」
これが、坂口先生の理想的な人間像なのだろう、と私は思います。

だからこそ、坂口先生は一休を主人公に選んだのでしょう。

(※以下、一休にまつわる有名なエピソードを一部紹介)
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この作品は基本的に「一休の生涯をそのままマンガ化した作品」と言って良いと思います。一応押さえるべき所は概ね全て押さえて描かれているようです。

まあ私自身が、それほど一休に詳しくもなければ、室町時代も門外漢で、仏教や禅にも疎く、しかも東京在住で京都の大徳寺に行った事もありませんからあまり保証は出来ませんけどw

そして作画的な面で言えば、『石の花』の時にも少し触れましたように、写実的(劇画的)一辺倒ではなくて幻想的な心理描写または印象表現は坂口先生のオリジナリティーが一番発揮される場面ですから、この『あっかんべェ一休』でもそういった幻想的なカットが多数描かれています。
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あと、ここまでは全く触れていませんでしたが、能の「世阿弥」も結構登場機会が多く(ただし一休との接点はほとんど無かったと思いますが)準主役級の扱いを受けています。そういった方面に興味のある方にも、この作品はオススメかも知れません。
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それにしても返す返すも惜しいのは、坂口先生の急逝です。

もっと生きておられれば、更に多くの興味深いマンガ作品を我々に見せてくれたであろうに。



最後に、前回同様、ググッて見つけた『あっかんべェ一休』の書評を載せているブログなどを参考用リンクとして貼っておきます。
http://soko-tama.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-f665.html
http://ashinagakujira.blog.fc2.com/blog-entry-127.html
http://asabu001.exblog.jp/27668556/

以上で、『石の花』と『あっかんべェ一休』の論評は終了となります。

(※あ~、それにしても、これでようやく積年の胸のつかえが取れてスッキリしたw)

「NHK解体」に関するまとめ(十例)

(1) 日本の公共放送であるにもかかわらず、「自立国家・日本」が主張すべき意見を封殺し、しかも運営資金のほとんどを日本人が負担しているのに、中国・朝鮮、又は旧GHQ(特に米国の立場を優先するような番組しか制作しない。 リンク1リンク2

(2) 受信料制度に様々な不備があり、甚だ公平性を欠いている。また「国営なのか?非国営なのか?」という点も不明瞭である。「国営放送局の新規創設」「民営化」「スクランブル化及びペイパービュー」などが検討されて然るべきである。 リンク1リンク2

(3) 局の政治的及び思想的スタンスが左側の言論に偏っている。「いわゆる保守系」の言論人はほとんどNHKの番組から排除されている。 リンク1リンク2

(4) 昔はともかく、現在では朝日新聞よりもNHKのほうが害が大きい。朝日は儲からなくなれば方針転換を余儀なくされ、また新聞業界自体が斜陽産業である。一方NHKには潤沢な資金(税金)があり、更には「映像や音声で直接感覚に訴える」という高いプロパガンダ能力もある。 リンク1リンク2

(5) 「弱者・被害者」報道は公共放送として、もちろんあって然るべきだが<言葉狩り><論点ずらし><自己保身><イデオロギー闘争>に利用する為にNHKの場合、それが至上命令となっておりやり過ぎである。 リンク1リンク2

(6) NHKの原発報道は「反原発」一色で、「原発再稼働」側の意見は皆無に等しい。現在多くの国民が患っている「原発アレルギー」は、NHKが3.11以降に垂れ流してきた“音声”と“映像”によって作り上げられた、と言っても過言ではない。 リンク1リンク2リンク3拙ブログの「反原発」関連カテゴリへのリンク

(7) 外部の識者による「討論番組」が異常に少ない。「国民にオープンな討論番組を見せる」という姿勢が甚だ欠如しており公共放送として失格であり、また民主主義(選挙制度)の観点から見ても失格である。 リンク1リンク2

(8) 「表現の自由」を盾に一切の干渉を排除し、リベラル知識人特有の「上から目線(=「国民は愚民」という意識)」も強烈で、公共放送の在り方や番組の内容について「国民にアンケートを採る」という事を一切しようともせず、非常に独善的であるリンク1リンク2

(9) 「JAPANデビュー反日台湾番組」や「佐村河内のヤラセ番組」等、非常に問題のある番組を数多く放送してきたが、責任を全く感じていない。 リンク1リンク2

(10) 一般のマスメディアで取り上げられる事はほとんどないが、NHK職員の不祥事は異常に多い。また公共の受信料で成り立つ放送局としては職員の待遇がお手盛り過ぎるという問題もある。 リンク1リンク2


その他にも、NHKが制作してきた数多くの「媚中番組」「韓国・朝鮮人擁護番組(ヘイト関連含む)」「民進党擁護番組」等の問題、また近年急速に内容が劣化している「NHK大河ドラマ」の問題などもありますが、それらは上記から割愛しました。

【結論】NHKを解体して、国民にとって必要最低限の事を放送する国営放送局を立ち上げ、残りは民営化すべし。(終)

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NHK受信契約訴訟 最高裁判決について

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最近ちょっと歴史マンガの話ばかり書いてきましたので、ここら辺でこのブログの本道である「NHK問題」に戻りたいと思います。

本日、NHK受信契約訴訟の最高裁判決が出ました。

NHK受信契約訴訟 契約義務づけ規定は合憲 最高裁大法廷(12月6日)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171206/k10011248431000.html

(以下、NHK公式サイトより引用)
NHKが受信契約の申し込みに応じない男性に対して起こした裁判で、最高裁判所大法廷は、「受信料は憲法の保障する表現の自由のもとで国民の知る権利を充たすための制度で合理的だ」として、テレビなどを設置した人に受信契約を義務づける放送法の規定は憲法に違反しないという初めての判断を示しました。

NHKは、テレビなどの設置者のうち、繰り返し受信契約を申し込んでも応じない人たちに対して、申し込みを承諾することや受信料の支払いなどを求める訴えを起こしています。

このうち都内の男性に対する裁判では、設置者に受信契約を義務づける放送法64条の規定が憲法に違反するかどうかや、契約がいつ成立するかなどが争われました。

6日の判決で、最高裁判所大法廷の寺田逸郎裁判長は、NHKの受信料について、「NHKの公共的性格を特徴づけ、特定の個人、団体または国家機関などから財政面での支配や影響が及ばないようにしたものだ。広く公平に負担を求めることによってNHKが放送を受信できる人たち全体に支えられていることを示している」と指摘しました。

そのうえで、放送法の規定が憲法に違反するかどうかについて、「受信料の仕組みは憲法の保障する表現の自由のもとで国民の知る権利を充たすために採用された制度で、その目的にかなう合理的なものと解釈され、立法の裁量の範囲内にある」として、最高裁として初めて憲法に違反しないという判断を示しました。

また、受信契約に応じない人に対しては、NHKが契約の承諾を求める裁判を起こして判決が確定した時に契約が成立し、支払いの義務はテレビなどを設置した時までさかのぼって生じるという判断も示しました。

判決では裁判官15人のうち鬼丸かおる裁判官が、契約者に受信料の支払いという経済的負担をもたらすことを考えると、契約の内容は法律で具体的に定めるのが望ましいという補足意見を述べたほか、木内道祥裁判官は、裁判の判決によって契約を成立させることはできず、別の形でNHKが請求すべきだという反対意見を述べました。

受信料はNHK運営のほぼ唯一の財源

受信料は、NHKを維持・運営するための、ほぼ唯一の財源となっています。

放送法64条は、NHKの放送を受信することのできるテレビなどの設置者に、受信契約を結ぶことを義務づけ、受信料はこの受信契約に基づいて支払われるものです。税金や広告収入ではない受信料を財源とすることで、国や特定のスポンサーなどの影響にとらわれず、自主・自律を堅持し、公共放送の役割を果たすことを目的としています。

受信料額は、口座振替やクレジットカード払いで支払う場合、地上契約は月額1260円、衛星契約は2230円となっており、社会福祉施設や学校、生活保護の受給者などは、受信料の支払いが免除される規定があります。

平成28年度末時点の有料契約件数はおよそ4030万件、平成28年度の受信料収入は6769億円で、NHKの事業収入に占める割合は96%、受信料の支払い率は79%となっています。

男性側 「納得いかない判決」

男性の弁護団の高池勝彦弁護士は「受信料が憲法違反ではないという最高裁大法廷の判決には、納得いかない。受信料制度の改革には役立たないし、NHKの抜本的な見直しにはつながらない」と話していました。

NHK「主張が認められた」

NHKは「判決は公共放送の意義を認め、受信契約の締結を義務づける受信料制度が合憲であるとの判断を最高裁が示したもので、NHKの主張が認められたと受け止めています。引き続き受信料制度の意義を丁寧に説明し、公平負担の徹底に努めていきます」とコメントしています。

総務相「引き続き公平負担の確保取り組みを」

野田総務大臣は「判決においては、放送法64条1項の規定は憲法上許容される立法裁量の範囲内であり、合憲であると判断されたものと考えている。NHKにおいては、受信料が広く国民・視聴者に負担していただいているということを踏まえ、引き続き丁寧に受信料の公平負担の確保に向けた取り組みを推進することを期待している」というコメントを発表しました。(終)

私の感想を言いますと、確かに「残念な気持ちはそれほど無い」と言えば嘘になるでしょう。それはまあ、「万が一でも」NHKが敗訴になる可能性は、ゼロではなかったのでしょうから。

しかし、私の個人的な感覚として言わせてもらえば、このような裁判をやっても「十中八九NHKが勝つ」事は分かりきっているのだから、『無駄な事をするなあ』というか『敵にわざわざ塩を送るような事をよくやるよなあ』という気持ちの方が強いです。ハッキリ言って。

『敵(=NHK)を利する為にわざと裁判に訴えているんじゃないのか?』とまでは言いませんけど、そう言いたくなるぐらい、本当に「無謀な作戦」を選びたがりますよねえ。我々「いわゆる保守」と呼ばれる人達は。
(※例の「台湾番組の訴訟」といい、他のいくつかの「いわゆる保守」の側が裁判に訴える場合には、往々にして見られるケースではありますけど)

私は11月25日にも書きましたし、4年前にも書きましたが、我々「いわゆる保守」の側というのは、「法律戦」では最初からハンディキャップを背負っているのですよ?
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(以下、11月25日の記事より一部抜粋して引用)
おそらく私だけに限らず「いわゆる保守」の人に共通する認識として、
司法界の人間はサヨク的傾向の強い連中が多い
という先入観を抱いている人が多いと思います。

まあ私のブログではこれまで散々述べてきた話として、この「サヨク」という言葉は西洋で生まれた「左翼」の概念と違って、日本にしか存在しない単なる「戦後憲法的なサヨク」という意味合いのものであり、要するに
サヨク戦後憲法的占領憲法を体現するもの
という事なのです。

だからこそ、法律の(一応)頂点にあるはずの「憲法」に至高の価値を見出している彼ら「サヨク」「法律戦」を主戦場としているのです。

なにしろ「日本国憲法」の下にある裁判官達が、その憲法とさながら一心同体の観すらある彼ら「サヨク」に対して、厳しい姿勢を取るはずがないのですから。

この点をもってしても、我々「いわゆる保守」の人間、特に「憲法改正」「自主憲法制定」を志している人間は「法律戦」では最初からハンディキャップを背負わされているのであって、相当の覚悟をして戦わなければならない、という立場にあるのです。

この事は肝に銘じておかなければならない、と私は思います。(終)
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このようにハンディキャップを背負って「法律戦」を戦っているのだから、少なくともこちらから仕掛ける(訴訟する)場合は、一分の隙も無いくらいに勝てる準備をしなければ、勝てるはずがないでしょう?

そうでなくても、そもそもNHKという組織は「法律戦」では無敵を誇るぐらいの強さを備えている相手なのですから。
(※これは「占領憲法=NHK」という事だけに限らず、物質的(=組織的)な面でも、金銭的な面でも無敵、という事)

我々はサヨクのやり方のように、「とんでもない理屈でも、とにかく数多く撃てば一つぐらいは当たる(勝てる)かも知れない」などという物量や金銭に物を言わせるような戦術は取れないのですから、狙った獲物は一発で仕留めるぐらいの準備や覚悟がなければ、下手に動くべきではありません。

まあ私は今回の判決の中身を詳しく精査している訳ではありませんから、これ以上強くは言いませんけど、そりゃ「受信料制度が合憲か違憲か」と問われれば、最高裁判事が「違憲」と言う訳はないわなあ。スクランブル制度やネット受信料などの側面から責めるのであれば、話は別としても。




ここまでは悲観的な事ばかり書いてしまいましたが、実は今回の敗訴はマイナス面ばかりではありません。

「こういったNHKという組織の現状を広く国民に訴える」

という点においては、これを一つの契機として捉える事もできるかも知れません。

NHKという組織の現状に対して、多くの国民が不満を抱いている事は間違いないのです。

立憲民主党の言い草から援用すれば「草の根からの批判の声」をNHKにぶつけるべきであり、まずはそういったNHKを糾弾する組織を作る事です。これは私が以前からずっと主張している事ですけど。

そして一番良いのは、その運動を基盤にして「国会に議員を送り込む」という方法です。

我々は現在の法律上、「法律戦」では絶対的に不利なのですから、草の根の声によって世論を動かして、国会や選挙で戦う以外に方法はないのだと思います。

そういったNHKを糾弾する組織を作るにあたっては、今回の裁判は(敗れたとはいえ)良いきっかけになるんじゃないでしょうか?と私は思います。




しかしまあ・・・、このブログで私は何年も前からそんな事を述べてきましたけど、それらしい社会的な動きは一向に見えてこないし、私は正直な所、もうそろそろ手を引きたい気持ちになってきてるんですけどね。

「NHK解体」に関するまとめ(十例)

(1) 日本の公共放送であるにもかかわらず、「自立国家・日本」が主張すべき意見を封殺し、しかも運営資金のほとんどを日本人が負担しているのに、中国・朝鮮、又は旧GHQ(特に米国の立場を優先するような番組しか制作しない。 リンク1リンク2

(2) 受信料制度に様々な不備があり、甚だ公平性を欠いている。また「国営なのか?非国営なのか?」という点も不明瞭である。「国営放送局の新規創設」「民営化」「スクランブル化及びペイパービュー」などが検討されて然るべきである。 リンク1リンク2

(3) 局の政治的及び思想的スタンスが左側の言論に偏っている。「いわゆる保守系」の言論人はほとんどNHKの番組から排除されている。 リンク1リンク2

(4) 昔はともかく、現在では朝日新聞よりもNHKのほうが害が大きい。朝日は儲からなくなれば方針転換を余儀なくされ、また新聞業界自体が斜陽産業である。一方NHKには潤沢な資金(税金)があり、更には「映像や音声で直接感覚に訴える」という高いプロパガンダ能力もある。 リンク1リンク2

(5) 「弱者・被害者」報道は公共放送として、もちろんあって然るべきだが<言葉狩り><論点ずらし><自己保身><イデオロギー闘争>に利用する為にNHKの場合、それが至上命令となっておりやり過ぎである。 リンク1リンク2

(6) NHKの原発報道は「反原発」一色で、「原発再稼働」側の意見は皆無に等しい。現在多くの国民が患っている「原発アレルギー」は、NHKが3.11以降に垂れ流してきた“音声”と“映像”によって作り上げられた、と言っても過言ではない。 リンク1リンク2リンク3拙ブログの「反原発」関連カテゴリへのリンク

(7) 外部の識者による「討論番組」が異常に少ない。「国民にオープンな討論番組を見せる」という姿勢が甚だ欠如しており公共放送として失格であり、また民主主義(選挙制度)の観点から見ても失格である。 リンク1リンク2

(8) 「表現の自由」を盾に一切の干渉を排除し、リベラル知識人特有の「上から目線(=「国民は愚民」という意識)」も強烈で、公共放送の在り方や番組の内容について「国民にアンケートを採る」という事を一切しようともせず、非常に独善的であるリンク1リンク2

(9) 「JAPANデビュー反日台湾番組」や「佐村河内のヤラセ番組」等、非常に問題のある番組を数多く放送してきたが、責任を全く感じていない。 リンク1リンク2

(10) 一般のマスメディアで取り上げられる事はほとんどないが、NHK職員の不祥事は異常に多い。また公共の受信料で成り立つ放送局としては職員の待遇がお手盛り過ぎるという問題もある。 リンク1リンク2


その他にも、NHKが制作してきた数多くの「媚中番組」「韓国・朝鮮人擁護番組(ヘイト関連含む)」「民進党擁護番組」等の問題、また近年急速に内容が劣化している「NHK大河ドラマ」の問題などもありますが、それらは上記から割愛しました。

【結論】NHKを解体して、国民にとって必要最低限の事を放送する国営放送局を立ち上げ、残りは民営化すべし。(終)

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テーマ:報道・マスコミ - ジャンル:政治・経済

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