処士策論

「処士」(しょし)とは、仕官していない人、民間の人、在野の人のこと

あまりにも内容が酷いので改めて「大河ドラマと日本人」の書評解説

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前回の記事では、読了後にあまりにもムカッ腹が立って、ほとんど気持ちの整理もつかないまま一気に感情に任せて「大河ドラマと日本人」という書籍の事を痛罵してしまいました。

まあしかし、「NHK大河ドラマ」に関しては今年一年ここでずっと色々な論評を書いてきましたし、おそらく今後数年はほとんど書く事も無くなるでしょうから(来年、再来年は私の守備範囲外の「戦国大河」ですし)、この際ここで徹底的に書いておこうと思います。
(※という訳ですから、NHK大河ドラマに興味の薄い方は、以下の記事はスルーなさって下さい)

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「大河ドラマと日本人」 星亮一、一坂太郎(共著) イースト・プレス

この本が「凄まじいゴミ内容」である事は前回の記事でざっくりと指摘しましたが、今回はその「ゴミぶり」をもう少し丁寧に解説しておきたいと思います。

(1) 本の「外見」について。
まず、この本のタイトルには「大河ドラマと日本人」などと、いかにも堂々とした「直球ストレート」っぽいタイトルが冠せられています。

そして表紙と裏表紙には「独眼竜政宗の渡辺謙」「篤姫の宮崎あおい」「龍馬伝の福山雅治」と、いかにもキャッチーなビジュアルを配しており、特に「大河ドラマ初心者・入門者レベル」の人間に対するマーケティングとしては、申し分のない出来となっています。

ページ数は351ページもあって結構分厚く、一見すると本の中身が充実しているように感じられるかも知れません。

しかしながら実際の本の中身は、従前から私が申し述べているように恐ろしく浅薄で、このような「外見」には甚だ見合っておりません。

まあマーケティングの才能「だけ」は、天才的な詐欺師レベルである、と認めざるを得ない所でしょう。


(2) ロクに大河ドラマの中身を見ていないくせに「断定口調」で良し悪しを判断している。

この事は前回の記事でも一応指摘しておりましたが、今回、もう少し丁寧に解説しておきたいと思います。

星亮一一坂太郎がどういった人物(=歴史家)であるのか?という事は前回の記事でも多少触れました。

この本を読む前は星亮一がどういう人物であるか、私はあまり詳しくは知りませんでした。「幕末会津の専門家」である事は知っておりましたが。
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しかし、この本の中でも少し書いてある通り、またWikiを見れば分かるように、星は「生粋の(=学者的な)歴史家」という訳ではありません。新聞社やテレビ局の仕事などを経て、かなり後年になってから幕末会津に関する本を何冊か出すようになったようです(前回も書きましたように、早乙女貢の指導も受けたようです)。

この本の中では、歴代の何十作という大河ドラマについて星と一坂が対談形式で論評をしており、この本の大体6、7割はその論評部分で占められています。

そして、この星の論評内容が、いかにも酷い。
その上非常に浅薄である。歴史に対しても、大河ドラマに対しても。

それが「元々生粋の(=学者的な)歴史家ではなかった」せいなのか?それとも80歳という高齢のせいなのか?それはよく分からないけれども、非常に視野が狭く、歴史観も薄っぺらい。そして勘違い(記憶違い)も何カ所か見受けられ、対談相手である一坂から修正を入れられている場面も時折見受けられます。

そこへ加えて、ドラマの中身をちゃんと見ていない(把握していない)作品が大部分であるにもかかわらず、
『(かくかくしかじかといった理由で、高い又は低い視聴率になったに違いない』
みたいな断定的な物言いでドラマの良し悪しを判断しています。



そして「視野が狭い」「大河ドラマの中身をちゃんと見てない」という点においては、一坂太郎も五十歩百歩なのです。
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ただし一坂の場合は、自身がこの最後の「花燃ゆ」論評の回で書いているように、青少年の頃に大河ドラマにハマっていたようで、その年齢の割にはやや古い時代の大河ドラマについてかなり詳しく理解しており、逆にここ20~30年ぐらいのやや新しめの大河はほとんど見ていない、というバックグラウンドがあるようです。

ちなみに、その最後の「花燃ゆ」論評の回で書いている、この部分、

(以下、歴史REALWEBより一部抜粋して引用)
 今夏のこと。80歳になるある作家先生と、大河ドラマについて対談するという仕事が舞い込んだ。その作家先生は第一作の「花の生涯」(昭和38年)から現在まで、すべてをご覧になっているという。しかも、元テレビマンらしい。そんな生きた証言はとても貴重だから、僕は聞き書きを作るつもりで、引き受けたのだが…、作家先生にはのっけから「それがね、忘れちゃて」と言われてしまい、僕は大半の意味を失った。とても、残念である。(以下略)


この「80歳になるある作家先生」というのが、先に紹介した星亮一で、「対談するという仕事」が今回のこの「大河ドラマと日本人」の仕事である事は間違いありませんね。

そういう意味では、この「大河ドラマと日本人」という本は、高齢の大河ドラマファンにとっては、60年代、70年代の大河ドラマに関する論評として読むのであれば、一応それなりに読む価値はあるのかも知れません。
(※ただし私はそれらの年代の大河については、後年DVD等で見た「花神」「黄金の日日」「草燃える」しか内容を知りませんので、星の古い作品に関する論評内容が正しいかどうか判断できる立場にはありません。まあ上記の一坂のコメントで「それがね、忘れちゃて」とのっけから言われた、とありますからその信憑性は「推して知るべし」といった所でしょう)


(3) 思想が凝り固まっている
先程、一坂に対しても星と同様に「視野が狭い」と、私は指摘しました。

それは前回の記事でも少し指摘しました、一坂の
「反権力思想に取り憑かれた病」
という部分も、確かに関係があります。

一坂の理解力は、星ほど酷いものではなくて、一坂のこの本における論評内容、また今年一年書き続けてきた「歴史REAL WEB」の「花燃ゆ」論評の内容からしても、「ある程度は分かっている」と感じられる部分も確かにあります。

しかし、「ある程度は分かっている」としても、彼の「反権力思想に取り憑かれた病」と、更に「「獅子の時代」こそが自分にとっての唯一無二の作品である」という強固な思い入れによって、冷静に価値判断をする能力が麻痺してしまっており、少なくとも一般的な大河ファンの感覚と比べると、かなりズレた結論が導き出されているように感じられます。

(以下、「大河ドラマと日本人」の中から一坂太郎の発言を抜粋して引用。フォントの色は私の編集)
(P84より)
『週刊文春』平成二十五年(2013年)四月二十五日号で、「安倍首相もご不満 綾瀬はるか『八重の桜』視聴率低迷で早くも台本書き直し」のタイトルのもと、同年三月二十五日に「赤坂飯店で行われたオフ懇の席上」、安倍晋三内閣総理大臣が、次のように発言したと報じていたのだ。
「総理になってから日曜日があくようになって『八重の桜』を見るようになったんだ。でも吉田松陰の描き方は失敗だったよね。粗っぽすぎる。あと久坂玄瑞もちょっと軽く描きすぎ。あれじゃ長州をバカにしすぎだよ(笑)」
事実とするならば、「人の上」に立つ現役の首相としては、いささか軽率な発言ではないかと思う。(以下略)
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(P89より)
『週刊ポスト』平成二十七年一月三十日号掲載の「新大河『花燃ゆ』と安倍首相&創価学会『ただならぬ関係』と題された記事で公表されている情報のみを使い、「NHKの安倍政権への阿(おもね)り」などと、なぜ言われるようになったのかを見ておこう。(以下略)

ここら辺の「安倍陰謀説」「反安倍思想」に関する私の反論は、かなり早い段階から私は繰り返し強調していた所ですので、ここで詳しくは述べません。
一応、リンクだけ貼っておきます。
リンク1リンク2リンク3(※リンク3は文末の「花燃ゆ」批評に関するまとめ(十例)の(4)を参照の事)
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まあこれらのバカげた陰謀論を論破するのは簡単な事です。

『「八重の桜」で長州をバカにされた(?)安倍首相がNHKに無理矢理作らせたのが今回の長州大河「花燃ゆ」であり、NHKは安倍首相に阿っているのだ』などというのが事実なのであれば、普通は首相の御機嫌を取る為に「長州をカッコヨク描く」はずですよね?
にもかかわらず「八重の桜」の長州描写とは比べ物にならないくらい、長州をバカにしている今回の「花燃ゆ」が、安倍首相に阿った長州大河と言えますか?
以上。これで論破終了です。

というよりも、まともな「大河ドラマ論評本」であれば(ネット上の歴史REAL WEBで一坂自身がやっていたように)そのドラマ内における歴史描写や人物描写の論評、またはNHKのドラマ作りの姿勢などを論評するのが本筋のはずであって、政治状況や社会状況などを優先して大河ドラマ論を語るなど、愚論も甚だしい。ましてや「陰謀論」に至っては、何をか言わんやである。


(P113より)
(大河ドラマ第一作目「花の生涯」に関する対談中)ジャーナリズムがジャーナリズムであったというか、それだけに反骨精神もあったでしょうし、いくら佐藤栄作内閣だからといって、「薩摩や長州を礼賛するような」ドラマなんか作れない…。
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(P182より)
(「花神」が低視聴率である、という事について)やはり勝者の側の維新史というものが、ドラマになりにくいというか、ドラマとして観たいと思わせるものが乏しい。勝者の話というのは、ドラマとして面白いかつまらないかは別としても、最初からそういう先入観を背負って立たざるを得ないものを持っているのかなと。僕は、「花燃ゆ」はどうかと思いますが、「花神」については、ものすごく面白いドラマで、ワクワクしながら観ていました。当時、山口県出身の七人目の宰相佐藤栄作の内閣のころに原作が書かれているんですね。そういう時代に司馬さんも、「長州人とは何か」というテーマを強く持っていたようなのだけど、一方でそんなものはドラマとして見たくないよという国民感情がある…。
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(P184より)
明治維新に対する評価、いまも、「吉田松陰だ、高杉晋作だ」という政治家がいるわけだから、じゃあ、それが本当に正しいのかと。安倍首相は吉田松陰がかつて言った、「どれだけ反対する者がいても自分の正しいと思った信念を貫く」に自分の姿を重ねているそうだけど、総理大臣と、地位も名誉もない、権力もない一介の浪人である松陰が言っていることとは全然意味合いが違うわけです。総理大臣がそんなことをやってしまえば、ただの権力の濫用になりかねない。
(中略)
ただ、これはまだ終わっていないから、このあいだ三十話が放送されているだけなので、結論は言えませんが、やっぱり、勝者の歴史ドラマに対するアレルギーみたいな、政権を取った側に対するアレルギーがある。それが明治維新ですから。戦国時代の話なら別ですが、現代にまで何らかの形で繋がっているというものが、僕は読んでいないけれど、『明治維新という過ち』なんて本が売れるのもその理由の一つですよね。
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(P290より)
(「新選組!」に関する対談中、なぜか憲法九条の話へ)僕は憲法の問題というのは、いま変えるべきかどうか、ものすごい疑問がある。官房長官などを務めた後藤田正晴が言っていたのが、あの人は絶対憲法を変えるのは反対でしたけど、アメリカに押しつけられた憲法だというのは嘘だと。後藤田さんは当時、若い内務省官僚でいて、自分たちであれをつくったのだと。上にはアメリカがいたし、アメリカもいろいろ言ったけれども、でも、自分たちでつくった憲法なのだと。だから、改憲を推進する人がよく言うのは、押しつけられた憲法だとか、日本人の主体性がないとか言うけど、あれは自分たちが関わっているのだから、とんでもないと。ああいう嘘を言ってもらっては困ると言っていたらしいです。やはり、そういう世代がつい数年前まで生きていて、もう死に絶えちゃったから、ストッパーがなくなってしまった恐ろしさがある

前回の記事でも書きましたように、大河ドラマの評価基準として「視聴率基準」で判断するなど、ド素人ならいざ知らず、「歴史家」「長年の大河ドラマファン」を名乗っている人間が臆面もなくそんな事を発言して恥ずかしいとは思わないのだろうか?(※「視聴率基準」の大河ドラマ論が如何にバカバカしいか?という事は、私は過去に何度も書いたので今更ここで繰り返そうとも思いません)
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この場面だけに限らず、この本における対談では、基本的にほぼ全ての場面を通じて「視聴率基準」で大河ドラマの良し悪しを評価しているので、読んでて頭が痛くなってしまいます。

まあ上記の「花神」に関する一坂の論評は、「花神」の低視聴率と「花燃ゆ」の低視聴率を同列に扱っている訳ではなく、その点では「ある程度は分かっている」と感じられるのだが、
「国民(視聴者)は勝者の側の歴史など見たいと思わない」
などという、この「病的なまでの反権力思想の先入観」がある限り、この人がまともに大河ドラマの中身を論評する事など、どだい不可能な話だろう、と言わざるを得ません。
(※一坂の語る拙い護憲論に至っては、論ずる価値もない。ただ、一応以前、一坂の思想について私は指摘した事があるので、そのリンクを貼っておきます)

年配層や長年の大河ファンは別としても、多くの国民(視聴者)は幕末維新の歴史に関して、それ程深い知識を持っている訳でもないし、また「勝者の側の歴史だから見たいと思わない」などと特殊な思い入れを持って大河に接している訳でもない。

普通の大人の感覚で考えれば、そんな事、常識として分かるはずですよね?


と言うか、大河ドラマについて語るのであれば、繰り返しになりますけど、ちゃんとドラマの中身を確認してから評価を下してくださいよ。
そして、純粋に歴史ドラマの出来について、多くの人間が納得できるような論評を語ってくださいよ。

少なくともあなた達は二人とも幕末専門の歴史家なんだから、私がこの時の過去記事で述べた、幕末関連の大河ぐらいは全部ちゃんと目を通した上で、自分達のドラマ論評を語る義務があるだろう?「大河ドラマと日本人」などというタイトルを冠した本を出版するのであれば。




この本のP255からは92年の「信長 KING OF ZIPANGU」、続いてP258からは98年の「徳川慶喜」に関する対談があります。
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この辺りの星の訳の分からない論評を聞いていると頭がおかしくなりそうです。星は一応、「徳川慶喜」はそれなりに見たらしいです。一坂はどちらもほとんど見ていないようです。とりあえず星は2作共こきおろしています。一坂は「信長」は「緒形直人じゃダメでしょう」みたいな感じで、「徳川慶喜」は見てないからよく分からない、みたいな論調です。

ちなみに星は「徳川慶喜」について、
『江戸の庶民みたいな人たちが誰か出てきてね、新門辰五郎とか、その娘役の大原麗子が江戸弁で「ケイシュウさま」と呼ぶとか、江戸市民が大変歓迎している様子を描いてハッピーエンドだったんじゃないかと思います』
と語っていますが、「その娘役の大原麗子」じゃなくて、大原麗子は妻役で、ナレーション兼任(娘役は清水美砂)、しかも「ケイシュウさま」じゃなくて「ケイキさん」と呼ぶ。更に言うと、「江戸市民が大変歓迎している様子を描いてハッピーエンド」というのも間違っています
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このジイさん(星)は、この本では終始こんな感じのいいかげんな論評ばかりですが、とりあえずそれは脇へ置いておくとして、過去記事でも書いたように、私はこの「徳川慶喜」良作であると思っています。

ちなみにこの本の中で、88年の「武田信玄」については、一坂はかなり否定的な見方をしています。曰く『ちゃんと見てはいないけれど、新田次郎の原作が好きなのにイメージと違う。中井貴一は武田信玄とイメージが合わない』との事。
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この「武田信玄」「信長 KING OF ZIPANGU」「徳川慶喜」は、3つとも田向正健先生が脚本を手掛けています。

私はこの田向正健先生の脚本、結構好きですよ。3つとも。
私はこれらの作品をライブではちゃんと見てはいませんでしたが、後年、DVD等で3つとも全話視聴しました。

確かに田向正健先生の脚本は、かなりクセが強いです。
もう一方の脚本家の雄であるジェームス三木先生も、結構クセの強い脚本を書きますが、ある意味「王道的」な雰囲気がかなり濃い部分もありますから、それと比べると、思い切ったキャスティングも含めて、やはり一種独特な雰囲気を持った一連の作品群と言えるでしょう。「武田信玄」、「信長 KING OF ZIPANGU」、「徳川慶喜」は。

これら独特な雰囲気を漂わせる田向作品が、60年代、70年代のNHK大河に象徴される「格調高い大河ドラマ」を好む人達、また保守的な高齢者層に受け入れられるかどうか?と言うと、それは私も難しいだろうと認めます。

しかし、世の中『そういった昔ながらの大河作品しか認めない』といった頑固な保守層ばかりでもないでしょうし、こういったある種の「冒険的な試み」を評価する人間も、決して少なくないと思います。

少なくとも、ここ十数年くらいの「完全にタガが外れたような大河もどき」とは違って、ちゃんと歴史に対する最低限の敬意も、その雰囲気が作品からにじみ出ていますし、コダワル所はコダワッて作品を創り上げている制作者側の心意気は十分に感じられます。


ですから「徳川慶喜」は、大傑作とまではいかないまでも、幕末大河のジャンルでは私が素直に評価している作品の一つです。
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司馬遼太郎が原作だから」というのは、評価する理由と全く関係ありません。原作がそれほど重視されている訳でもありませんし、そもそも原作は分量も少なく、短編みたいな小説ですから。ほとんど田向先生のオリジナル作品みたいな感じですね。

『市井の人物をたくさん登場させ過ぎていて話が冗長である』という意見も確かにあります。私はその意見を殊更否定はしませんが、その辺りは大河ドラマ(歴史ドラマ)として見るよりも、「時代劇」「人情劇」として見る事をお薦めしたいと思います。

ジェームス三木作品と同様、骨太な歴史ドラマの中にも、時々クスっと笑えるギャグや皮肉が入っていたりして、緩急自在なドラマ展開になっています。特に佐藤慶岸田今日子藤岡琢也のベテラン陣がその「緩」の部分を上手く引き受けています。
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また宮崎あおいとは比べ物にならないくらい、凜々しい天璋院篤姫深津絵里)を見る事が出来ます。
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まあ、ざっと簡単に挙げただけでもこれぐらいの論評はすぐに出来ますが、この「大河ドラマと日本人」という本では、こういった論評は一切無いままで、
『(かくかくしかじかといった理由で、高い又は低い視聴率になったに違いない』
みたいな、ほとんど先入観だけでなされるドラマ論評に終始しています。





最後に、あと二点だけ「大河ドラマと日本人」の中身に突っ込みを入れておきます。
まず一つ目。90年の「翔ぶが如く」の論評場面について。

(P251より)
一坂『次は「翔ぶが如く」で、また司馬遼太郎の、男くさいドラマに帰る…』
編集『司馬遼太郎でまた、10%落とすんですよね
(中略)
一坂『「花神」の薩摩版みたいなやつでしょう。「翔ぶが如く」というのは、原作は、川路利良が洋行するところから始まったと記憶します。明治に入り、征韓論争から西南戦争に突入していくまで、いろいろな人間模様を含めながら描いています。ドラマは、幕末の早い時期から、島津斉彬が藩主になるという、黒船来航のころから描いていましたから、半分以上が小山内美江子という脚本家のオリジナル作品です。司馬遼太郎原作と言ってますが、原作を使ったのは後半部分だけです。でも、非常に男くさいドラマであったことは記憶にありますが、それではもうウケない時代に入ったというか』
星『これはもう定番みたいなストーリーで、西郷隆盛と大久保利通でしょう。特にどうということもなく、ただ漫然と見ていた番組の一つですね』(以下略)

この本はやたらと視聴率ばかりを重視して、その上、更に司馬のディスりもお好きなようです。まあその事はとりあえず脇へ置くとして、ここで述べられている一坂のこの発言
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>半分以上が小山内美江子という脚本家のオリジナル作品です。司馬遼太郎原作と言ってますが、原作を使ったのは後半部分だけです。
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これは誤りです。

ちゃんと番組をチェックせずに、付け焼き刃のにわか知識だけで大河を語るから、こういった手落ちが発生する。

小説の「翔ぶが如く」が、大河ドラマの「翔ぶが如く」における後半(正しくは「第二部」)にしか該当しないのは有名な話ではあるが、だからと言って前半(第一部)が小山内美江子のオリジナル作品というのは完全な誤りで、前半(第一部)でも司馬原作の「最後の将軍(慶喜関係)」「きつね馬(久光関係)」「竜馬がゆく(龍馬関係)」「幕末(桜田門外の変)」が原作で使われている事は、オープニングのスタッフロールの場面で、その回ごとに、例えば
『原作 司馬遼太郎 「翔ぶが如く」「最後の将軍」より』
などと併記されているのを見ればすぐに分かる事だ。
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大体、大河の「花神」だって、小説の「世に棲む日日」、「十一番目の志士」、「」その他の複合的な作品であった事を考えれば、それくらいの発想は出来るはすだと思うんだけどねえ。



最後にもう一つ。
この本では、星亮一田中彰先生を以下のように非難している。

(P327より)
松陰を革命家、憂国忠君の士、理想的な教育者とやや極端に賛美したのは、長州出身の歴史家・田中彰氏である。田中氏は松陰が詠んだ二つの歌を挙げて、「松陰こそ日本近代化の起点としての明治維新における発火点に立つ人物にほかならない」と讃えた。(歌の論評部分は省略)ともあれ、松陰をべた褒めに褒めた』(以下略)

もうね。
このジイさんの世迷い言は、この本ではこれだけに限らないけれども、こともあろうにあの田中彰先生を指して、
松陰を革命家、憂国忠君の士として極端に賛美した
ですからね。

脳みそ腐ってんのか?と。


私は4月29日の記事で田中彰先生と吉田松陰について書いています。

花燃ゆ、幕末長州、吉田松陰 その2(2015/04/29)

この時の記事で、この書籍のまえがきより抜粋した文章を転載しましたが、それを再度、以下に掲載します。

吉田松陰―変転する人物像 (中公新書)吉田松陰―変転する人物像 (中公新書)
(2001/12)
田中 彰

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(以下、一部抜粋引用。文字の色を変えているのは私の編集によるもの)
(途中から)吉田松陰は、戦時中、「大東亜戦争」における「忠君愛国」の理想的人間像として鼓吹された。とりわけ学校教育のなかでは、児童・生徒に対して「少松蔭たれ」と、イデオロギー教育がなされた。とくに松蔭の出身地山口県ではそうであった。そこに生み出された「少松蔭」たる軍国少年(少女)たちが、天皇や国に尽す最短距離の道は、松蔭にならって「尊皇」の精神に徹し、戦場に赴くことだった。松蔭像は、軍国主義教育にフルに活用されたのである。

 しかし、1945年8月15日の敗戦によって、価値観が一変した。あれほど熱狂的に松蔭像を描き、松蔭を担ぎ上げた人々は沈黙した。松蔭に関する伝記は姿を消した。

 戦前・戦中にたたき込まれた教育の反動もあって、私は吉田松陰を敬遠していた。歴史の研究を始めても、この人物だけは敬して遠ざけようという気持が強かったのである。

 ところが、1951(昭和26)年、人々の意表を突いたかのように、突如、吉田松陰が登場した。新しい松蔭像を描いた著作が刊行された。奈良本辰也著「吉田松陰」(岩波新書)である。

 そして、これを機に松蔭像は復権した。詳細は本文に譲るが、そのため、戦時中、熱狂的に松蔭像を描き、「大東亜戦争」「大東亜共栄圏」を正当化して、その尖兵として多くの「少松蔭」をつくり上げる一翼を担った吉田松陰伝の著者やその鼓吹者たちの戦争責任は、あいまいなものとなった。
(中略)
 このことは、戦時中の「少松蔭たれ」という教育を受け、軍人への道を歩もうとした者のひとりとしては看過できない問題であった。(以下略)

田中彰先生が示していたこのような吉田松陰に対する姿勢の、どこをどう押せば
松陰を革命家、憂国忠君の士として極端に賛美した
などと非難めいた発言が出来るのか?



本当に、私は会津ファンや会津にお住まいの方々に同情しますよ。

会津を擁護しようとする歴史家は、こんなイカれたジイさんとか、もう亡くなった早乙女貢とか、こんな連中しかいないんですかね?

本当にお気の毒だと同情しますので、次回の記事ではこのシリーズの締めとして、司馬遼太郎が書いた会津に関するエッセイを紹介する形で、私の会津観を語らせて頂きたいと思います。

(※ですから、次回の記事も幕末や大河ドラマに興味の薄い方は、スルーなさって下さい)

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(以下、今回は特別に、いつもの「NHK解体」に関するまとめ(十例)ではなくて、
大河ドラマ関連という事で「花燃ゆ」専用のテンプレートを使います)

「花燃ゆ」批評に関するまとめ(十例)

NHK大河「花燃ゆ」カテゴリ記事リンク
(1) 反日サヨクおよびチャイナ・朝鮮シンパの連中が幕末の長州を嫌うのは当たり前の話である。なぜなら、かつての大日本帝国による大陸進出は、幕末・明治の長州人と深い関わりがあるからだ。また吉田松陰も、戦前「忠君愛国」の理想像として宣伝された事もあったので、「戦前の日本=悪」といった思想が根本に備わっている反日サヨクおよびチャイナ・朝鮮シンパの連中が、長州を嫌うのは当たり前である。
※ここで言う「サヨク」というのは、西洋で生まれた「左翼主義」とは異なるもので、言ってみれば「戦後日本的な(憲法9条的な)サヨク」といった程度の代物の事を指す。
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(2) また、サヨクが長州を嫌う理由は他にもある。実は近年のサヨクは幕府や会津の側に対するシンパシーのほうが強く、薩長(新政府側)をネガティブな形で取り扱う傾向が強い。「戦前の日本=悪」=「明治以降の日本の近代史は悪」という思想のサヨクがそのような姿勢を取るのは自然な事であって、1990年(平成2年)の「翔ぶが如く」を最後に、NHKの大河でまともな薩長(新政府側)の大河が制作される事はなくなった。7年前の「篤姫」も、今年の「花燃ゆ」も、お花畑思想の女性が主人公を務める朝ドラチック少女マンガ風)な内容の物で、両者共、まともな薩長(新政府側)の大河と呼べるような代物ではなかった。

更に言えば、「篤姫」は、同じ幕末薩摩の大河である「翔ぶが如く」に対するアンチテーゼとして作られた作品であり、今回の「花燃ゆ」は、38年前に放送された同じ幕末長州の大河である「花神」に対するアンチテーゼとして作られた作品である。「翔ぶが如く」と「花神」の原作者である司馬遼太郎は「サヨクからは右翼と呼ばれ、保守派からは左翼と呼ばれる」人間ではあるが、少なくとも歴史上の人物を左右のプロパガンダに利用するような作家ではなかった近年のNHKの制作者とは違って)。
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(3) サヨクが長州を嫌うのは、上記のような歴史的な経緯だけが理由なのではなく、現在の安倍首相が山口(長州)出身という事も大きな理由である。サヨク勢力と関係が深いサヨクマスゴミの連中(もちろんNHK含む)が、安倍首相を非常に嫌っているという事は、今さら説明する必要もないであろう。

今年の大河に「花燃ゆ」が選ばれた経緯について、本来なら3年後の2018年(平成30年)が明治維新150周年であり、「幕末長州の大河」は3年後の明治維新150周年に合わせてやるべき作品だったのに、それを今年、戦後70年に敢えて持ってきたというのは、安倍首相が予定している「戦後70年談話」にも関係している。それは「花燃ゆ」に対する悪しき評判が浮上してくる度に、「安倍と地元山口との癒着」「安倍とNHK籾井会長との癒着」といった風評を垂れ流し、安倍首相に対するプレッシャー(戦後70年談話に「謝罪や反省の言葉を入れろ」というプレッシャー)に利用する、といったサヨク勢力の思惑も関係している。
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(4) 上記の(3)とも関連するが、要するに、今年の大河に「花燃ゆ」が選ばれた最大の理由は「NHKの内部の人間による政治的な思惑」によるものであり、巷間マスゴミなどが騒いでいる「安倍と地元山口との癒着」「安倍とNHK籾井会長との癒着」などというものは全くのデタラメである。と言うよりもむしろ逆で、「NHKを改革する為に送り込まれた籾井会長」を引きずり下ろす為に、NHKの内部の人間が仕組んだ自作自演の「罠」である。
(※その事はこの時の記事でも指摘したように、時系列的に見ても明らかであり、そもそも「安倍首相が無理矢理NHKに作らせた長州大河」なのであれば、なぜそのドラマの内容がこれ程までに酷い内容(長州をバカにしたような内容)になるのか?説明がつかないではないか)
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(5) 上記の(3)および(4)の通り、そもそも今回の「花燃ゆ」は「NHKの内部の人間による政治的な思惑」が最大の制作理由であり、『素晴らしい歴史ドラマを作ろう!』などという意気込みは、元よりNHKには全く無い。そして視聴率的にも、最初から取るつもりなど全く無かった。だからドラマの内容が壊滅的にお粗末な出来になるのは当たり前の事なのである。今回の主人公に、視聴率を全く取れそうにもなく、ストーリーを盛り上げられる要素もほとんどない松陰の妹・文を選んだのも、『なるほど。最初から失敗作を作る事しか考えていなかったんだな』と、うなずける話である。

そこには『手を抜いたほうが仕事が楽』(=大河ドラマの出来によって「受信料収入が増えたり減ったりする訳じゃない」)といったNHKが抱える根本的な体質の問題もあるが、一番大きな理由は『敢えて幕末長州の駄作を作って、各メディアに「花燃ゆ」の悪い評判を立てさせるように仕向ければ、(なぜ、こんなにもお粗末なドラマ制作の姿勢が許されているのか?といった根本的な部分はウヤムヤにしたままで)安倍首相や長州に対するネガキャンとして利用できる。更に、もし安倍首相や山口県民からNHKに対してクレームが出てくれば、(「表現の自由への侵害だ!」という理由で)更に安倍首相や長州をバッシングする材料として使える』といった思惑からきている。
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(6) NHKの長州(山口県)に対する差別意識は明白である。2年前の「八重の桜」では、震災復興関連という事もあって、幕末会津の歴史について丁重に取り扱うようにしていた。また登場人物の造形についても、それなりに作り込んでドラマを制作していた。もし2年前の「八重の桜」の時に、今回のようなバカげた作品(歴史背景の描写と登場人物の描写、その両方がデタラメな作品)を作っていたとしたら、NHKは(避難民も含めた)福島県民から猛烈な抗議を受けていたに違いない。

しかし長州(山口県)に対してであれば、NHKは全然平気なのである。なぜなら上記の(5)でも述べたように、「花燃ゆ」に関しては仮に抗議を受けたとしても、それはそのまま(安倍首相による「表現の自由への侵害」といった名目で)マスゴミによる安倍首相へのバッシングとして利用する事が出来るので、NHKは平気で長州(山口県)を差別するのである。と言うか、むしろ挑発している、と言ったほうが良いだろう(特に久坂に対する酷い扱いは、前代未聞である)。
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(7) 文と小田村を過剰に持ち上げるシーンが多く、ご都合主義的なストーリー展開が目立つ。こういった脚本の狙いは、従来は勇ましいイメージが強かった「長州の志士達」のイメージを矮小化する、といった所にある。具体的には、「長州の志士達」が激しく暴れ回っているその裏では、図らずもその騒ぎに巻きこまれた家族や親類・友人らの葛藤があり、その様子を露骨にドロドロとした(生々しい)ドラマとして描き、「長州の志士達」の正当性を打ち消すイメージを視聴者に刷り込む事ができる。

また、ドラマに出て来る「長州の志士達」は時折『この国を守るため!』等の勇ましいセリフを使う事もあるが、それは単なるノルマ的な(一応出しておきました的な)ものであって、一種のガス抜きである。実際は、その具体的な歴史背景などドラマでは全く描かれておらず、彼らが何の為に、そしてどのようにして「尊皇攘夷」を推し進めていたのか?一般の視聴者が理解できるようにはドラマを作っていないので、『この国を守るため!』等の勇ましいセリフも全く説得力を持たされておらず、空疎な形でしか一般の視聴者には伝わってこない。NHKは敢えて、そのように演出しているのである。
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(8) 登場人物が「現代の価値観」を基準として行動している事が多い。それは「戦後的な価値観」と言っても良く、その姿勢が一番顕著なのは主人公の文であり、とても「松陰の妹」とは思えないような「個人主義および平和主義」的な言動が目立つ。これはもはや歴史ドラマと呼べるような代物ではなく、このドラマの中で、それら以外の「価値観」としては、あとは「平等主義」が見受けられるぐらいのもので、「尊皇攘夷」も、「日本の自主独立」も、「長州人としての誇り」も、主人公の文にとっては全く関心が無い。また、文以外の長州人達を見ても、いつも空疎で薄っぺらなセリフを吐いているだけで、骨のある登場人物は一人としていない

更に多くの登場人物に共通している特徴として、「偽善的な言動」も目立つ。何か信念を持って行動している訳でもなく、その場面場面によってコロコロと言動が変節している事も珍しくない。これは複数の人間が脚本を書いている(=脚本家達の間で整合性が取れていない)という事が原因であり、更に、それら脚本家達全員が、登場人物に対してほとんど感情移入をせずに脚本を書いている(要するに「(脚本の仕事を)やる気が無い」)という事が原因であろう。
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(9) どういった視聴者層を狙って作っているのか?が全く見えてこない。コアな歴史ファンが完全に見捨てられているという事は(上記の解説を読めば)一目瞭然である。では逆に、歴史にあまり詳しくない一般の視聴者を狙って作っているのか?と言うと、決してそんな事はない。歴史背景の描写をスルーしまくっているので(特に孝明天皇や朝廷全体の動向、更には幕府首脳の動向などはロクに描かれていないので)、なぜ?何の為に?何がしたくて長州の人々がこんなにも大騒ぎをしているのか?一般の視聴者には全く理解が出来ないストーリー展開になっている。それ故に、コアな歴史ファンと一般の視聴者、その両者から全く共感を得られておらず、『一体誰が得をするんだ?』と言わざるを得ないドラマの出来になっている。

更に言えば、朝ドラチック(少女マンガ風)大河という事で「女性向けドラマ」として作られている、と一般的には受けとめられているのかも知れないが、主人公の文を筆頭にして、出てくる女性キャラのほとんどが「嫌な人間」ばかりで、どう考えても女性視聴者に共感を得られるようなドラマの作りにはなっていない。本当に、一体誰が得をするのだろうか?このドラマを見る事によって。(上記で述べたように、NHKの内部の人間は、思惑通りに事を運べるのだから、得をするのかも知れないが)
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(10) 吉田松陰や松下村塾の塾生達をテロリストとして叩く傾向が、ネットなどでは時々見受けられる。「間部詮勝要撃計画」や「攘夷実行による外国船砲撃」などを指して、『だから長州の連中はテロリストなんだよ。キチガイなんだよ』と(おそらく大半はサヨク系の連中と思われるが)そこかしこで煽っている。
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「尊皇攘夷」「開国」「佐幕」「倒幕」「公武合体」。
これらの用語は、幕末の歴史に疎い一般の視聴者にとっては、分かりにくいかも知れない。

しかし難しく考える必要など全く無い。
極論すれば、それらは全て「権力闘争の方便」に過ぎないのだから。
高らかに「尊皇攘夷」の旗を掲げている長州でさえ、裏では「長州ファイブ」を英国留学に送り出している。

話は少し横に逸れるが、ネットで『長州はキチガイでテロリストだ!』などと煽っている反長州の連中は、実は本音の所では「反米」「反沖縄米軍基地」「反TPP」等の反米思想に染まっている連中(=反米サヨク)のはずであり、本来であれば「長州による攘夷実行、外国船砲撃」のシーンを見て、彼らは快く思っているはずである。しかし連中はそういった本音を押し殺しながら、『長州はキチガイでテロリストだ!』などと扇動の為のネット工作を続けている。

そのやり方こそが、まさに「長州のやり方」と全く同じなのである。
長州は、表では「尊皇攘夷」を唱え、裏では「開国」の準備をしている。
ネットのサヨク工作員達は、表では「反米(沖縄基地反対)」を唱え、裏では「反米(攘夷実行)」をキチガイと罵る。
長州の真の狙いは「国内の権力闘争に勝ち残る」という所にあり、サヨク工作員の真の狙いは「日米離間のための扇動」と、更には「安倍・長州叩き」という2点にある。
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権力闘争の歴史などはシナ大陸こそが本場なのだから、「反米サヨク親中」の人達のほうがよほど詳しく把握しているはずだと思うのだが(笑)、日本の視聴者の方々も、それぐらい達観した歴史観で「大河ドラマ」に向き合ってもらいたいものだと思う。
そしてNHKについては、『いつもメソメソと泣いてるシーンばかりの(子供向けの)学芸会を放送するのは、いいかげんにヤメレ』と心底から文句を言いたい。


【結論】政治的な思惑で動いているNHKの煽り(挑発)に乗せられる事なく、「花燃ゆ」の話題はスルーするのが正解。そしてさっさと黒歴史として封印すべし。ネット工作員の煽りに対しては、この十例からコピペして対応してもらっても結構。うかつに関わると時間と労力を浪費させられるだけの事。もし仮に反撃をするのであれば、一撃必殺の構えで確実に論破すべし。(終)

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