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処士策論

「処士」(しょし)とは、仕官していない人、民間の人、在野の人のこと

来年の幕末薩摩の大河ドラマを来月に控えて、幕末関連の話などを少々(前編)

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今回、サブタイトルは上記のように書いていますが、実は今回の記事は、2年前に書いたこの時の記事、
あまりにも内容が酷いので改めて「大河ドラマと日本人」の書評解説(2015/12/26)

この記事の一番最後に、私は以下のように書きました。
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(以下、一部抜粋して引用)
本当に、私は会津ファンや会津にお住まいの方々に同情しますよ。

会津を擁護しようとする歴史家は、こんなイカれたジイさんとか、もう亡くなった早乙女貢とか、こんな連中しかいないんですかね?

本当にお気の毒だと同情しますので、次回の記事ではこのシリーズの締めとして、司馬遼太郎が書いた会津に関するエッセイを紹介する形で、私の会津観を語らせて頂きたいと思います。
(以下略)
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という事で、実は2年前にその「幕末の会津関連」の記事を、私は既に書きあげていたのです。

しかし、この直後に「例の日韓慰安婦合意」の問題が勃発してしまいまして(※というかこのブログ自体を閉鎖すると、その時は息巻いていたのだが)その時に書いた「幕末の会津関連」の記事は、そのまま「お蔵入り」にしていたのです。

しかし、来年は「幕末薩摩の大河ドラマ」が放送されますので、多分会津の話も少しは出るでしょうから(※少なくとも、間違いなく「西南戦争」の話はやるはずですから)、まあこれを機に「お蔵入り」していた記事を公表しようと思いまして、今回ここにアップする事にしました。


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紹介するのは司馬遼太郎の「街道をゆく」の「奥州白河・会津のみち」です。

司馬遼太郎は1988年(昭和63年)7月に奥州白河・会津を訪れて、紀行文(エッセイ)「街道をゆく」を記しています。

司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ(朝日新聞出版社)
白河・会津のみち
http://publications.asahi.com/kaidou/33/index.shtml
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(以下、一部抜粋して引用。(中略)やフォントは私の編集による。ピクチャはNスペ「街道をゆく」より転載)
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(※冒頭「奥州こがれの記」の章から始まって、「関東と奥州と馬」「新幹線とタクシー」「二つの関のあと」「江戸期の関守」「白河の関」「黄金花咲く」と続く部分は割愛。その次の「東西戦争」の章より以下、引用開始)
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東西戦争

 つちのえ・たつの年、音でいうと戊辰(ぼしん)になる。
 西暦でいえば、一八六八年である。ややこしいのは、この一年のあいだに、元号が二種類あったことである。
 このとしに、慶応四年が明治元年(九月八日に改元)にかわった。元号がふたつあるために、このとしにおこった国内戦争のことを、とくに十干十二支でもって、
「戊辰戦争」
 というのが慣わしになっている。

 戊辰は、六十年ごとにやってくる。私どもが白河にやってきたのは、明治維新(戊辰)から三度目の戊辰である一九八八年だったから、白河では戊辰戦争にちなむさまざまな行事がおこなわれていた。

 戊辰戦争は、日本史がしばしばくりかえしてきた“東西戦争”の最後の戦争といっていい。
(中略)
 戊辰戦争は、西方(薩摩・長州など)が東方を圧倒した。
 しかしながら新政府は東京に首都を置き、東京をもって文明開化の吸収機関とし、同時にそれを地方に配分する配電盤としたから、明治後もまた東の時代といっていい。
 - 東北は、そういう“東”じゃありませんよ。
 というむきもあるかもしれないが、奥羽は、源頼朝以後、関東の後背地としてやってきたから、右の図式でいう“東”に属すると私はおもっている。
 - そうじゃなくて、東北は第三の一点です。“東”じゃないんです。
 というような力み方が、東北にある。これはひょっとすると、東北人のひそかな楽しみのひとつである自虐性 - もしくは高度な文学性から出た自家製の幻想かもしれない。
 “西方”には、そういう幻想がない。たとえば、西方のなかの四国だけが“私どもは南方で、西方じゃありません”と拗ねているようなことは、まずありえない。
(中略)
 子規の終生の保護者だった叔父の加藤恒忠(拓川)は、民権気分がつよく、かつフランス語による教養の浅からぬ人だったが、
「松山が薩長に負けたはずだよ」
 と、よく同郷の人に語っていたといわれる。拓川は、薩長の危機意識のつよさと、それにむかっての藩制・軍制・兵器の改新の歴史が松山藩よりも数歩さきんじていた、とからりといって、それっきりの感情しか、戊辰の歴史についてはもっていなかったように思える。
 そこへゆくと、東北、ことに会津はちがう。
(中略)
 戊辰戦争について、簡略に記しておきたい。
(中略)
 その上、徳川方の敗北をいっそう決定づけたのは、慶喜の戦意のなさだった。当時、慶喜は、家康以来のやり手といわれた。ところが、かれは水戸学の宗家ともいうべき水戸徳川家の出で、水戸学的歴史意識がつよすぎ、後世、逆賊といわれることをおそれた。かれは五万の兵を擁しながら、敗者という政治的演出をした。五万の兵をおきすて、こっそり大坂城を脱出し、海上にのがれて自分の軍艦にのり、江戸へ帰ったのである。以後、ひたすら恭順という政治姿勢をつらぬいた。眼前の現象に対する政治というよりも、後世に対する政治だったともいえる。
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 あわれだったのは、会津藩主松平容保だった。慶喜は大坂城を脱出するとき、容保を小脇にかかえるようにして放さなかった。会津兵と容保をきりはなすためだった。会津兵たちは、大坂城に籠城して薩長と戦えと叫びつづけていた。

 江戸に帰った慶喜は、容保をすてた。容保と接触することは、会津とつながることになる。会津とつながっているという印象を世間にあたえれば、恭順の印象がにごってしまう。
 慶喜は、容保が江戸城に登城することさえ禁じた。慶喜自身、やがて江戸城を出、寛永寺で謹慎し、ついで水戸へ帰り、政局の舞台からまったく姿を消すことになる。
 容保は、会津に帰らざるをえなかった。

 明治維新は、革命としか言いようがない。革命には、血祭りが要る。慶喜の首を刎ねれば千万言を用いずして世がかわったことを満天下が知るのである。総帥の西郷はそのことをよく知っていて、軍をひきいて江戸にむかう途上、しきりにそのことを言った。

 ところが、当の慶喜のほうが役者が上だった。かれは勝海舟に全権をあたえて江戸を開城してしまったため、新政府軍は血祭りのための目標をうしない、結局は会津藩を犠牲の壇にのせざるをえなかった。

 奥羽(東北地方)諸藩は、会津藩に同情的だった。新政府は、当初、みずから労することなく奥羽諸藩をもって会津(庄内藩をもふくむ)を討たせようとした。奥羽の側はその手には乗るまいとし、この間、さまざまないきさつがあって、情勢が転々した。

 結局、奥羽は、反薩長という感情のもとに結束した。これに北越諸藩(現在の新潟県の長岡・新発田・村上・村松・三根山・黒川など)を加え、「奥羽越列藩同盟」が結成され、その会議所が現在の宮城県の白石におかれた。敵は、新政府軍であった。以後、半年、戦乱がつづく。

 以上が、戊辰戦争発端のあらましである。

 最初の戦場は、越後だった。長岡藩はよく戦い、一時期、横浜あたりの外国人のあいだで、新政府の存立をあやぶむ声も出た。

 この間、薩長にとって、危険な綱わたりがつづいた。
 もし徳川慶喜が恭順せず、その領地も新政府にわたさず、箱根をもって第一防禦線とし、関東・奥羽・北越の諸藩をひきいて新政府軍と決戦したとすれば、日本史はべつの運命をたどったはずである。むろん、いずれが勝つにせよ、アメリカの南北戦争と同様、日本の東西の感情の亀裂は深刻なものになったにちがいない。
 この点、統一日本の成立の最大の功績者は、徳川慶喜であるというほかない。
 慶喜は、みずから舞台を降りた。このため、奥羽越列藩同盟は、
 「徳川」
 という帽子をかぶることができなかった。
 つまり、列藩同盟は、徳川家への忠誠心という倫理を結束のしんにすることができず、せいぜい薩長への反感と会津への同情心という二つの感情を共通項にしてまとまらざるをえなかった。
 この程度の感情が長つづきするわけはなく、まして藩と個々の生命を犠牲にするほどの大義名分にはなりにくかった。
 まず秋田藩(佐竹氏)が脱落して新政府側につき、つづいて新庄・本庄・矢島、そして津軽弘前藩も、これにならった。
 それでも、仙台(伊達氏)、米沢(上杉氏)、それに会津という三大藩が存在するかぎり、奥羽の戦力は軽いものではなかった。
 その最前線が、越後長岡藩だった。新政府軍はゆるすかぎりの兵力を集中してこれと戦い、激戦のすえ、これをつぶした。
 この報は、列藩同盟の気力までつぶした。同盟の中心的存在だった仙台・米沢の両藩が降伏したのである。
 会津藩は、孤立した。
(以下略)

(※続く「関川寺」の章、「野バラの教会」「山下りん」「徳一」「大いなる会津人」「市街に眠る人びと」と続く一連の章は割愛。その次の「会津藩」の章より以下、引用再開)
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会津藩

 会津藩について書きたい。
 なにから書きはじめていいかわからないほどに、この藩についての思いが、私の中で濃い。

 藩祖は、保科正之(一六一一 ~ 七二)である。この人の思想と人柄が、のちのちまで会津藩を性格づけた。
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 かれは二代将軍秀忠の傍流の子だったが、幼いころ信州高遠藩の保科氏の養子にやられ、二十をすぎて高遠藩主になった。前将軍の子であり、現将軍家光の異母弟でありながら、わずか三万石の小身だった。べつに不足を抱いたふうはない。
(中略)
 教養という点でも、同時代の大名たちからぬきん出ていた。深く朱子学を学び、さらにはこの時代の新学問ともいうべき神道に傾倒したことで特徴的であった。江戸初期にはめずらしいほどの日本的な思想家だったといっていい。
 法制家でもあり、商工業の育成者でもあった。
 もっとも重視したのは、風儀だった。
 風儀とは、文化のことである。士風という、精神的慣習をつくることにつとめ、その「家訓」十五カ条の第六条にも、
「家中、風儀を励むべし」
 と、定めている。
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 幕政にも参加した。
 幕政家といっても、政略的なことには参加せず、むしろかれが得意とする法制(『武家諸法度』など)の制定に参画した。
(中略)
 藩としての精度が高かったために、江戸時代、国事にこきつかわれた。
 たとえば江戸末期、北辺をロシアの南下でおびやかされはじめると、江戸幕府は、会津藩を動かして、はるか北辺の警備にやった。
 北海道にはもともと松前藩が所在するのだが、弱体でどうにもならず、すぐそばの津軽藩に警備上の動員令を出したものの、藩兵が弱くてたのみにはならなかった。
 やむなく会津藩がつかわれたのである。
 この藩は北辺の各地に陣屋を設けて国家の前哨の役目をしたが、寒さのために罹患して死ぬ者が多く、いまも北海道やその属島に会津陣屋あとや藩士の墓がのこっている(このことについて、国家は一度も旧会津人に感謝をしていない)。
 会津藩にとっての最大の難事は、幕末、幕府が、ほとんど無秩序になった京都の治安を回復するために、会津藩主松平容保(一八三五 ~ 九三)を起用して“京都守護職”にしたことである。
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 京都守護職は、伝統的な機関ではない。
 幕権の京における非常警備軍ともいうべきもので、当然ながら政治的要素を多量にもっている。
 政治・機略・策謀といったことは、会津藩のにが手としてきたものであった。初代以来、幕府の行政に参加したことがあっても、政治的な動きをしたことがなく、その感覚ももちあわせていなかった。いわば生真面目すぎる藩風だった
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 すでに、京における長州藩や浪士たちが過激公家とむすびついて幕府の外交政策に反対し、騒擾(そうじょう)をきわめているばかりか、薩摩藩もこれにくびをつっこんで、その機略は端睨(たんげい)すべからざるものがあった。
 当時、尊王思想が爆発的に流行していた。幕府がこの藩をえらんだ理由の一つは、藩祖以来、尊王の面での老舗だったということもあったろう。
 この命がくだったとき、松平容保は江戸屋敷にあり、病いのために臥せていた。かれは命に対し、自分の不才と藩が東北に僻在していて家臣たちが都に馴れないことを理由に、再三ことわった。
 が、幕閣は執拗だった。
 ついに承(う)けたとき、国もとの会津から家老の西郷頼母と田中土佐がいそぎ出府して、翻意を乞うた。
 「この時勢に、この至難の局に当るのは、薪を背負って火に入るようなものでございます」
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 容保はあとで、江戸家老の横山常徳などをよび、
「頼母らが、そのようにいう。自分も当初そう考えてきた」
 と前置きして、
「しかるに、台命(将軍の命令)はしきりである。そのつど固辞してきたために、幕閣のある筋では“会津は一身の安全をはかっている”と心外なことを言いはじめた。いうまでもなく、わが家祖(保科正之)の遺訓に、宗家(徳川将軍家)と存亡をともにすべしとある。もはや遺訓に従って、火中に入るほかないと決心した」
 最後に、

 君臣唯京師(ただけいし)の地を以て死所となすべきなりと、議遂に決す。(山川浩遺稿『京都守護職始末』)
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 という結論になった。一説では君臣相擁して泣いたともいわれる。会津藩はその後の運命を当初から予感し、承知のうえで凶のくじをひいた。史上めずらしいといえるのではないか

 ついでながら、前掲の書の著者山川浩(一八四五 ~ 九八)は、同時代の当事者集団のひとりであった。
 浩は、旧藩士である。その父は仕置家老(一代家老)にまで進んで早世し、浩自身、容保が京都守護職になって上京した文久二(一八六二)年、容保に命ぜられてつねに側近に侍した。この間のことを身をもって知る立場にいた人である。
 激動期の当事者のひとりが、後年、冷静な態度で史録を書いたという例は、さほどに多くない。会津は、一人の山川浩を持ったことがせめてもの幸いだった。

 明治維新というのはあきらかに革命である。
 革命である以上、謀略や陰謀をともなう。会津藩は、最後の段階で、薩長によって革命の標的(当時でいう“朝敵”)にされた。会津攻めは、革命の総仕上げであり、これがなければ革命が形式として成就しなかったのである。
 会津人は、戊辰の戦後、凄惨な運命をたどらされた。
 かれらは明治時代、とくに官界において差別された。
 かろうじて山川浩が、かれを尊敬していた土佐の谷干城の好意で軍人になった。ついで高等師範の校長になり、さらには貴族院議員になったりして、他の同藩の士よりもめぐまれていたが、しかし一日として心を安んじたことはない。
 その晩年、旧藩のことを雪辱すべく右の史録を書いたのである。
 堂々たる修史事業で、一人でできるようなものではなかった。幸い、九歳下の弟がいて、これに協力した。
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 弟とは、山川健次郎(一八五四 ~ 一九三一)のことである。健次郎もまた、その少年期は数奇だった。戊辰戦争のとき、少年隊である白虎隊にいったんは編入され、年齢が一つ不足していたために外された。このことが、生涯溶けることのない心中の病塊になった。
 会津鶴ケ城が落城し、容保が降伏してから、処分がきまるまで、藩主および藩士団は城外の猪苗代と塩川の地に謹慎を命じられた。全員が捕虜のあつかいだった。この時期、藩の儒者秋月韋軒たちが、会津がほろんでもその種子をのこすべきであるとして、ふたりの少年の逸材をえらび、越後口にむかって脱出させたのである。少年とは、山川健次郎と小川亮だった。
 山川健次郎は明治三年、北海道開拓使の留学生にえらばれ、渡米し、イェール大学で物理をまなび、明治期の物理学の開拓者になった。
 かれは、帝大の前身の教授になり、明治三十四年、東京帝大総長、ついで九州帝大総長、ふたたび東京帝大総長にもどり、京都帝大総長を兼ねた。よほどの徳望の人であったことは、この職歴でも察せられる。
 日常、白虎隊の話になると涙のために言葉が出なかったといわれる。

 その兄の浩が晩年、『京都守護職始末』を書きはじめたとき、健次郎がたすけただけでなく、現在の東大史料編纂所の前身の研究機関につとめていた旧松前藩士の池田晃淵に史料さがしや校訂を乞い、中途で浩が病死してからは、晃淵と健次郎の手で稿を完成させた。
 原稿は明治三十五年にできあがった。健次郎は兄浩と親交のあった土佐人谷干城と、おなじく長州人三浦梧楼にみせた。谷はけっこうではないかと言ったらしいが、三浦は難色を示した。
 三浦は、長州奇兵隊あがりで、もともと陸軍にいた。その後、官界に移り、単純な男ながら、政治好きで、黒幕であることを好んだ。ともかくも明治の長州閥の有力者だったから、山川健次郎は三浦によって長州閥の反応をみたのである。このあたりに、健次郎らしい周到さがうかがえる。
 健次郎は、九年待った。一長州人が出版に反対したため九年も待ったというところに、明治期の会津の立場が象徴的にあらわれている。
 ようやく明治四十四年、ひろく世間に売るということでなく、旧藩の者にだけくばるという形で、刊行された。むろん、非売品だった。ひょっとすると、山川家の金はこのために尽きたのではあるまいか。
 わずか二年のあいだに三版まで版をかさねた。刊行と同時に、早くも古典のような評価をうけたといっていい。

 明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩とした。この地は三万石といわれていたが、実質は七千石程度で、そういう寒冷の火山灰地に一万四千二百八十六人が移った。藩士たちのくらしは赤貧というようななまやさしいものではなかった。あたらしい藩主の容大(移住のときは生後一年四カ月)自身、衣服にシラミがわくという状態で、他は文字どおり草根木皮を食べた。
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 石光真人の編著に、
『ある明治人の記録』(中公新書)
 という本がある。副題が“会津人柴五郎の遺書”とある。
(※ブログ主註:この本の事については、2年前の8月15日にブログで取り上げました)
 旧会津藩士柴五郎は安政六(一八五九)年にうまれて、昭和二十(一九四五)年十二月、八十七歳でなくなった。
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 明治初年、斗南の地から飲まず食わずで東京に出、できたばかりの陸軍幼年学校に入学して、ようやく三食を得ることができた。
 かれは、山川兄弟と似た温厚質のひとだったが、近代史の重要な場に登場する。明治三十三年、駐在武官として北京にいたときに義和団事件が勃発したのである。
(中略)
 しかし権力の座についた一集団が、敗者にまわった他の一集団をこのようにしていじめ、しかも勝利者の側から心の痛みも見せなかったというのは、時代の精神の腐った部分であったといっていい。
 柴五郎の家は、二百八十石という標準的な会津藩士だった。
 籠城中は、父や兄は城内にいた。幼かった五郎は本ニノ丁の屋敷にいたが、ある日、郊外の山荘へひとり出された。
 そのあと、祖母、母、姉妹がことごとく自刃した。末の妹は、わずか七歳だった。木村という家に嫁した姉も一家九人が自刃し、伯母中沢家も家族みな自刃した。かれらは、自発的に死をえらんだ。藩は婦女子も城内に入るようにといったのだが、彼女らは兵糧の費(つい)えになるということで、城内に入ることを遠慮したのである。
 歴史のなかで、都市一つがこんな目に遭ったのは、会津若松市しかない。

長くなりましたので、以下は次回(後編)に続きます。

(※今回は、いつも文末に貼っているテンプレートは割愛します)
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