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処士策論

「処士」(しょし)とは、仕官していない人、民間の人、在野の人のこと

来年の幕末薩摩の大河ドラマを来月に控えて、幕末関連の話などを少々(後編)

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以下、前回(前編)の続きです。

(以下、一部抜粋して引用。(中略)やフォントは私の編集による。ピクチャはNスペ「街道をゆく」より転載)
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幕末の会津藩

 紀行であることから離れて、すこしむだ口を書きたい。
 幕末・維新の会津藩についてである。私には、つよい同情がある

 ただ、明治維新(一八六八年)が、薩長による討幕という形でおこったことも当然だったろうと考えている
 同時に、その勢いを駆って、薩長政権が封建制を廃滅させたことについても、慶賀する気持でいる。ともかくもこの結果、まがりなりにも国民国家が成立する基礎ができたのである。
 さて、むだ口である。
 江戸封建制が、コメを物質的価値の基礎にすることによって成立したことはいうまでもない。全国三千万石というコメ収穫の二割ほどを徳川家がとり、同時に政府(幕府)運営費とした。
 あとを、二百数十の大名群にわけた。大名の力も権威も、その領地でどれほどコメがとれるかできめられた。侍どもの尊卑も、同様である。石高というコメの大小が基準だった。その価値の源泉は、水田農民がつくる。
「民百姓の労苦をお思い遊ばすように」
 といって、どの大名も、少年時代、耳にタコができるほどきかされて育つ。大名たちは、深層の部分では農民と運命共同体のつもりでいた。げんに、かれらの祖は、鎌倉・室町の農民から出た。
 諸藩の侍もそうで、
「窮すれば農民のまねをせよ。商人のまねはするな」
 といって育てられた。屋敷内に畑をつくることはしても、商いはするな、ということである。
(中略)
 明治維新にさきだつ三十年ばかり前の天保年間(一八三〇 ~ 四四)、コメ依存の幕藩体制は窮しきってしまった。このときに幕藩体制の命脈は事実上尽きたといっていい。
 有名な「天保の改革」は、経済を守ろうとする幕府の最後の抵抗だった。
 むろん対症療法にすぎない。ともかくも庶民にカネを使わさないこと(倹約の強制)を強いた。
(中略)
 幕府にはコメを重んずるという原理があり、これが、経済よりも神学的にまでなっていたため、天保改革が失敗した。
 諸藩はこの点、不見転(みずてん)のように尻軽で、カネ(殖産興業)に身を売るような、無節操さがあった
 とくに雄藩のなかで改革に成功したのは長州藩、薩摩藩で、土佐藩、肥前佐賀藩がこれに次いだ。
 この薩長土肥四藩が、三、四十年後に倒幕の主力になるのだが、気味がわるいほどの偶然さである。

 薩摩藩では、調所広郷という茶坊主あがりの者を大抜擢して藩の財務いっさいをまかせた。調所がやったことは、ひたすらにカネ経済だった
(中略)
 長州藩も、村田清風という、禄五十石という卑(ひく)い者を抜擢して財政を一任するまでは、三度におよぶ一揆や八万五千両の借財で、窮迫しきっていた。
 村田は、商人と交渉して一切の借金を三十七年の年賦にし、専売主義の薩摩藩とは逆に、専売のわくをゆるめて商品生産を活性化した。
(中略)
 会津藩の場合、天保改革における成果は、幕府ほどに惨憺たるものでないにせよ、きわめて小さかった。
 ただし、この藩にも、江戸中期から諸藩で流行してきた商品奨励主義(当時のことばでは殖産興業)の考え方は存在していた。
 そのことは、天保に先んじ、寛政年間(一七八九 ~ 一八〇一)からはじまっている。
 なんといっても、この藩にカネをもたらす工業品目は会津漆器だった。寛政四年、京都から工人をまねき、蒔絵や金粉の技術を精妙なものにした。
 また“国産主役”という役職を設け、会津絹を改良し、他に、会津蝋および会津蝋燭などの改良を計った。
 会津蝋燭はいまでも有名だが、しかし蝋(主として髪のびんつけに使う)そのもののほうは、やがて九州諸藩の蝋と価格競争の点で太刀うちできなくなってゆく。
 寛政期にはよくやったが、会津藩は封建制が精密であったせいか、体質として商工業になじまなかったようである
 なにぶん、危機救済をする財政家は、天才を必要とし、しかも全権を与えねばならない。このため薩摩も長州も、茶坊主に全権をあたえたり(薩)、また五十石の士を藩内閣の首班にすえたり(長)した。会津ではとてもそれができず、つねに世襲の重臣が担当した。

 しかも、天保期でかえって後退する。この藩の天保改革は、幕府の場合と同様、コメ中心にゆりもどった。幕府の方針にひきずられたとみていい。
(中略)
「この種の層を、会津でも興さねばならない」
 この藩は遅まきながら思った。容保が藩兵をひきいて京都守護職として京都に駐屯中のことだった。
 そこで京から国もとに命じ、領内の村々の肝煎(名主・庄屋)の者に苗字帯刀(士分の待遇)をゆるし、それに準ずる者にも、羽織と脇差(足軽の待遇)をゆるした。
 また献金者にも、苗字を名乗ることをゆるした。
 目的は、藩と領民の一体化をはかるというところにあったらしい。ともかくも遅かった。
 しかし遅かったぶんだけ、会津藩における家中の秩序が、よく積まれた石垣のようにつよく、士風は凛々としていたということがいえる。一得一失といっていい
(中略)
 幕軍は、長州の挙藩体制と庶民軍のつよさと兵器の優秀さの前に、各地で敗退した。幕府という身分制社会が、長州という多分に“国民国家”にちかいあたらしい社会にやぶれたともいえる。
 京都にあってこの様子をみていた会津藩の有志たちが、
 - 会津が、もし他から攻められるようなことがあれば、長州のように挙藩一致ができるかどうか
 と、自問自答しなかったとはおもえない。
 会津と長州との縁は、宿縁である。
(中略)
 ただ新選組の苛烈な白刃によって都の大路小路に屍をさらした長州人や長州系の浪士の数はおびただしく、そのことが、長州人の恨みを買った。恨みは、会津藩にむけられ、やがて会津攻めになって晴らされる。
 - 京でのことは、新選組がやったことだ。
 と、前記の『京都守護職始末』が書かないあたり、会津人というのはどこまでも謹直で、このあたりは牢固たる士風から出ているといっていい。得失でいえば、猥雑なカネ経済的な思考法が、すくなかったことの一得である。

容保記

 松平容保の容貌は、華奢で端正である。
 よく知られている写真に京都守護職時代のものがあり、長烏帽子に陣羽織、采配をもち、床几に腰をおろしている。眉濃く、目もとが涼やかで、二十代後半とは思えないほどに少年のにおいが濃い。
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 美濃高須三万石の松平家にうまれ、十二歳のときに会津松平家に養子に入った。江戸和田倉門の会津藩上屋敷で、養父容敬から薫陶をうけた。会津松平家は、神道である。初代正之の神号を“土津(はにつ)霊神”というが、薫陶というのは正之の思想をうけつぐ教育といっていい。
 養子というより、宗教団体に入ったことに似ている。経典は正之がのこした「家訓」十五カ条である。
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「将軍を一心大切にせよ。列国(一般の藩)とはちがうのである。もし将軍に二心をいだかば、わが子孫ではない。家臣の面々もこれに従ってはいけない」
「法を畏れよ」
 幕法や藩法に忠実であれ、ということである。会津藩が、幕威の衰亡期においても幕命に忠実であったことを思いあわせていい。
(中略)
 さきに、容保が“自分は不才である”としてこの職を再三ことわったことはふれた。が、台命(上意)しきりにくだったという。具体的には、幕府の最高職である“政事総裁”の松平春嶽(慶永。越前福井藩主)が容保を見こんでくどきにくどいた。
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 春嶽は幕末の一時期、尊攘の志士たちから“四賢侯”の一人などといわれ、紛糾した時勢の中であたらしい方向を見出すことにつとめた。主として、懐ろ刀の橋本左内の知恵から出たものだった。
(中略)
 そういう時期に、春嶽が政事総裁になった。かれは公武合体主義だった。ただ政治家としては、左内をうしなって以来、はなはだ精彩を欠いた。
 そういう春嶽が、容保を見こんだ。容保の聡明さとその側近団の上質さと、それに会津藩の武力がほしかったのである。
「とてもその任ではありません」
 とひたすら固辞する容保に対し、春嶽はじつに執拗で、手紙を送ったり、重臣をよびよせて容保に承けさせよ、と説いたり、ついには駕籠でやってきて、病中の容保をたたきおこして説いた。
 が、政治とは、はかない。いざ容保が上洛し、事態がいよいよ紛糾し、倒幕気分のたかまりのもとに春嶽の公武合体論が古ぼけたものになってゆくと、春嶽は容保を火中から救ってやろうとはせず、政局の火炎のなかからすこしずつ身をひいた。
 公武合体主義の薩摩の島津久光や土佐の山内容堂も似たようなもので、一時期、親友の春嶽とともに“京都政界”に鼻をつっこんでいたが、火の手のはげしさに結局は京を去り、この業火のなかでふみとどまったのは、将軍後見役の一橋慶喜と松平容保だけだった。
(中略)
 容保が歴史のなかにいたのは、わずか五年未満だった。歴史とは、京都にいた時期のことである。二十八歳から三十三歳までのあいだのことだった。
 この間、かれは過激派から敵とみなされつつ、ひとり孝明天皇のみから信頼された。孝明天皇は穏和な現状維持派 - つまり佐幕家で - で、倒幕を希(のぞ)んだことは一度もなかった。
 とくに文久年間の京洛騒然としていた時期、長州系の尊攘家たちが、“勅諚”とか”勅旨”とかを持ちまわっていたことはさきにふれた。
 それらは、尊攘の士が、過激派公卿と組んで勅と称して出したもので、筆者は久留米浪士でかつて水天宮の神官だった真木和泉(禁門ノ変で死亡)である場合が多かった。
 ところが制度上、天皇の手で制止することもできなかった。
 孝明天皇は、このことに悩み、武家ではただ一人容保を、わらでもつかむように信じた。

 孝明天皇は、二度、容保に内密の宸翰(しんかん。天皇の書簡)をくだしているのである
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 その最初のものは文久四(一八六四)年甲子二月のもので、「極密々、禁他聞」とあり、じつに長文のものだった。
 配達者は、武士に変装した伝奏の野宮定功で、二月八日夜、黒谷の容保の館にひそかにやってきて、“容保は和歌を好むということが天聴に達したので御製を拝見させる”という口上でもって、ぶあつい宸翰を手わたした。披見して、容保は仰天した。こういう例は、古来あったろうか。

「極密々書状遣(つかはし)候」
 からはじまる宸翰は、時勢についての天皇自身の意見をのべ、容保の考え方、態度を大きく嘉(よみ)している。
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 以下のようなくだり(口語訳)もある。
「なにぶん、汝との間で“密話”することはむずかしい。それに“密々面会”もなしがたいから、やむなくこのように“筆談”する。“筆談”といっても急に互いに意味を会得しがたいだろうから、たびたび“筆談”を往来させたい」
 と、いう。この文意から察するに、天皇は側近の公卿にさえうかつに心をひらけないという緊迫した宮廷の様子がうかがえる。
 くりかえし、書状のなかで、天皇は、
 
 少しも漏洩無之様(ろうえいこれなきよう)…

 といったことばをつかい、守秘を要求というより、懇願しているのである。
 容保はこの守秘については、生涯をかけてまもりぬいた。天皇崩御ののちは、いわばみずから解禁してもよかったろうが、それでも黙していた。また時勢が大旋回して朝敵の名を蒙ったときもこの宸翰をもちだして立場を明らかにしようとはしなかった。まことに“道理”の人というほかない
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 おそるべきことは、藩士にさえ明かさなかったことである。明治二十六年、死の病床にあっても身辺の者にさえ明かしていない。
(中略)
 この崩御のあと、徳川家の運命は急落した。
 翌慶応三年十二月、幼帝によって王政復古が号令された。同時に容保は京都守護職を解かれ、徳川慶喜とともに京を去って、大坂城に入った。一方、京は、薩長がかためた。大坂の幕軍とにらみあいつつ、ついに戊辰第一戦の鳥羽・伏見の戦がおこることになる。

 私は二十年ほど前、このような容保のことを、『王城の護衛者』という題のもとで書いた
 およそ非政治的な青年が、政治の風浪のなかで翻弄され、ついに砕かれてしまう話である。会津若松城の開城降伏後は、城池(じょうち)没収の処置に遭い、住むべき屋敷もとりあげられた。
 明治二年十一月、松平の家名が再興され、家も、旧臣が奔走して内桜田の旧狭山藩邸が用意された。
 容保はここで、壮齢ながら余生を送った。
 明治二十六年十二月に病没するまで、この人は、京都守護職時代のことを語らなかった。ただ当時のうらみをのべた詩がある。慶喜に裏切られたときの詩である。「なんすれぞ大樹(たいじゅ。将軍のこと)、連枝(れんし。一門、自分のこと)をなげうつ」からはじまる詩は絶唱というべきものだが、その詩でさえ、旧臣たちは世間に遠慮をし、門外に出さなかった。
 容保は、篤実な性格のせいか、逸話というものがなかった。
 ただ、肌身に、長さ一尺あまりの細い竹筒をつけていた。ひもをつけて頸(くび)から胸に垂らし、その上から衣服をつけているのである。入浴のときだけは、脱衣場の棚においた。
 家族のたれもがそれを不審におもったが、問うことをはばかるふんいきが、容保にあった。
 その死が、明治二十六年十二月であることはすでにのべた。十月に病み、十二月五日に死んだ。
 死後、竹筒のなかみを一族・旧臣が検(あらた)めてみると、なんと孝明天皇の宸翰二通だった。この二通が、明治後、沈黙の人になった容保のささえだったのである。
 それでもなお、会津人はつつましかった。この二通で、薩長という勝者によって書かれた維新史に大きな修正が入るはずだのに、公表せず、ようやく明治三十年代になって、『京都守護職始末』に掲載するのである。
 いま、東京銀行の金庫のなかにおさめられている。

 紀行にもどる。
 この紀行は、白河からはじめた。
 白河での一夜、たまたま会津にきておられた容保の孫で、直系の家督を継いでおられる松平保定氏が訪ねてきてくださった。
 保定氏は、浮世での仕事をほぼ終えられたお齢である。いまは東京大手町にある明治航空サービス株式会社の相談役をつとめられている。
 この人とは、二十年前、前記『王城の護衛者』のことで電話をくださったとき以来だった。そのときの声が印象的で、明るくて響きに笙(しょう)のような情趣があった。
 白河では、たがいに初の対面になり、一タをともにした。
 保定氏の風貌や人柄は、駆逐艦の艦橋に立つ海軍の古参艦長といった感じで、ただふとした拍子に、容保の面差(おもざし)が重なった。(以下略。以上、引用終了)

今となっては、教科書的かつ古典的内容の会津エッセイと言えるかと思いますが、司馬さん独特の示唆に富んだ会津エッセイという事で、今回、長々と紹介させて頂きました。

私が抱いている幕末会津観も、概ねこのような感覚に近いです。

ド素人の私がグダグダと駄文を開陳するよりも、私が抱いている感覚を、上質な文章で言い表してくれている司馬さんの文章のほうが、読む人にとっては価値があると思いまして、敢えてこういう形を取りました。

前回前々回の記事では、ともすると、私が「会津をバカにしている人間」と勘違いされてしまう恐れも、無いとは言い切れませんので、このシリーズの一番最後にこういった形で弁明をさせて頂きました。

(※上記の「前回、前々回の記事」と書いてあるのは、2年前に書いた「大河ドラマと日本人」という本と星亮一と一坂太郎に対する批判記事の事)

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以上で2年前に書いた記事のアップロードは終了です。


さて、来年2018年は「明治維新150周年」という事で、NHKでは「幕末薩摩大河ドラマ」が放送されます。
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この「明治維新150周年」に関しては、2年前の「あの幕末長州の大河ドラマ」という悪夢を見せられた時に、既にこのブログで指摘していた話ですが、本来であれば「あの幕末長州の大河ドラマ」こそが、来年の「明治維新150周年」にやるべき作品だったのですよね。もしくは江戸時代最後の年(1867年)から150周年という今年に。
(※なぜ数年早めてあの年にアレが放送されたのか?も含めて、その辺の憶測は、私は既に2年前に書いているが、ここでは割愛する)

まだドラマの内容を見てもいないのに番組の中身について何か言うのは「気が早い」と言われてしまうかも知れませんが、原作者、脚本家および公式サイトのプレリリースを見る限り、まあ95%の確率で「あの幕末長州の大河ドラマ」の二の舞になるだろう、と思われますので(夏に「風雲児たち」ドラマの事を書いた時にも指摘済みですが)私はあまり期待していません。

ただ一つだけ言える事は「あの幕末長州の大河ドラマ」の時は「長州ファイブ」の事をほぼスルーしたNHKも、今回の「幕末薩摩の大河ドラマ」に関しては「薩摩スチューデント」を無視する事はないだろう、という事です。

なにしろNHKは、朝ドラで「五代友厚」メジャーにした、と自負しているはずですから、まあ「翔ぶが如く」ではほぼスルーされた「薩摩スチューデント」や五代友厚も、今回の大河では多分出すでしょう。松木弘安(寺島宗則)も一緒に。
(※アーネスト・サトウがドラマに出るのは、まあ主役が西郷なのだから当然ですね。ひょっとするとウィリスも出るんだろうか。薩摩が舞台だし)


(※今回も、いつも文末に貼っているテンプレートは割愛します)

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